ワードパレット:lunar phase

10,401 文字

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18番「十六夜」 三郎

ほとんど/ゆっくりと/ためらい


 一目見て、もう手遅れだと悟った。
 血が流れすぎている。傷も深い。えぐれた肉の中から、骨が見えていた。
 吹きすさぶ寒風に雲が流されるたび、月明かりが周囲を白銀に光らせる。一面に積もった雪が、山を白く覆っている。木々も、崖も、枯れ草も、何もかもが白い中、二人の足元に横たわる灰色狼から漏れる赤い血の色だけが、そこだけ奇妙に浮き上がって見えた。
 八左ヱ門が一年の時に拾った狼である。群れからはぐれて弱っていたところを、周囲に反対されながらも手ずから育てた。おかげで八左ヱ門によく懐き、成体になってからは実習にも連れ出すようになった。木下先生はあまりいい顔をしなかったが、この狼のおかげでうまくいったことも、片手では数え切れないほどである。
 今回も、元は実習の一環であった。敵情視察を終えた帰りに抜けようとした山道で、雪崩に遭ったのだ。
 雪に足を取られて思うように動けない人間たちに代わり、必死で逃げ道を探し、最後は背後に回って背中を押しやって、そこまでして二人を逃がしてくれた。おかげで二人助かったが、狼は逃げ遅れ雪崩に巻き込まれた。跳ね飛ばされたはずみで鋭い岩にでも体を打ち付けたのだろう。折れた後ろ足の付け根から、ざっくりと深い傷が走っていた。
 三郎は、立ち尽くす八左ヱ門の背にゆっくりと近づき、そっとその肩に触れる。いつもならすぐに振り返る彼は、頑なに足元を見下ろしてじっと動かないでいた。
「八左ヱ門」
 三郎が呼ぶとようやく彼は顔を上げ、ゆるゆると地面に膝をつく。肩に手を触れさせたまま、三郎も身を屈めた。
 狼が息を吐く度、白い吐息が、赤い血が、熱と共に逃げてゆく。彼の手が毛皮をそっと撫でると、もうほとんど動かない青い瞳が、それでもわずかに八左ヱ門に向けられる。
「ごめん……」
 絞り出すような声で、謝罪を口にする。三郎の位置から、八左ヱ門の表情は窺えない。食いしばった歯がぎり、と嫌な音を立てて軋んだ。それきり無言で、胸元から苦無を取り出す。月光に冴え冴えと鋼が光った。
 血の匂いは獣を呼ぶ。こうする他に仕方がなかった。
 強く頭を押さえると同時、ためらいもなく、首に刃を入れる。両前足が一度、もがくように痙攣して、すぐに動かなくなった。
 見開いたままの瞳を閉じてやり、しかばねとなった狼の体を、八左ヱ門はもう一度だけ、優しく撫でた。弔いの儀式は、それだけだった。
「三郎、手伝え。熊が来る前に埋める」
 猛然と雪を掘り返しはじめる八左ヱ門の横に並び、己も苦無を取り出しながら、その顔を盗み見る。月が照らす頬に、涙の跡は見えない。
 あの一瞬、確かに鼻を啜る音が聞こえたはずだが、いずれ、寒さのせいということか。

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