恋ではなかった

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 ついたての向こう側で、雷蔵が泣いていた。

 あの、柔和な面持ちとは正反対に、じつは頑固で、負けず嫌いで、三郎以上にひとに弱ったところを見せたがらない男が、布団の中に潜り込んで枕に顔を押しつけるようにして、声を殺して泣いているのだ。
 三郎はそれを、暗闇の中に目をこらすようにして聞いていた。呼吸ひとつ乱さずに、体は微動だにさせなかったが、頭の中には混乱が渦を巻いている。
 本当はすぐにでも起き上がって、三郎が弱っているときに雷蔵がそうしてくれるように、ぴたりと肩を寄せ合って、優しい声で「どうしたの」と声を掛けてやりたかった。背を撫でて「何も心配することはないよ」と言ってやりたかった。しかし、少しでも三郎が起きている気配をさせれば、雷蔵はもう息を止めてでも泣き止もうとしてしまうだろうから、そしてそれは、まったく三郎が望むところではなかったから、ただひたすらに目を見開いて、自分と天井との間にある闇の中に答えを探した。
 どれくらいそうしていただろう。やがて雷蔵の苦しげな嗚咽は聞こえなくなって、すう、と深く息を吸う音がした。それから、
「中在家先輩……」
 と震える吐息が名を呼んだきり、ついたての向こうは静かになった。三郎はついにぴくりと体を揺らしたが、その後はじっと息を潜めて向こうのようすを伺った。やがて、聞こえてくるのが穏やかとは到底言えない、消え入るような寝息だけになったことを確かめて、三郎はおもむろに体を起こした。
 そして、音もなく天井に飛び上がると、六年長屋に向かって天井裏を駆け出したのだった。

 ◆ ◇ ◆

 今日の夕方、雷蔵は常にない様子で長屋に戻ってきた。
 顔色を真っ白にして、能面のような表情をして、おぼつかない足取りで部屋に入り戸を閉めたかと思うと、そのままふらふらと押し入れを開けて、畳まれた布団と布団の間にぶすっと顔を突っ込んだ。
 まるでためらいのない見事な突っ込みぶりに、声を掛ける暇もなかった。
「ら、雷蔵?」
 中途半端に腰を上げた体勢で三郎はようやく、恐る恐るといった風に名を呼んだ。立ち上がった拍子に手放した筆から、作りかけの面に墨が散ったが気にしてはいられない。頭を布団に埋もれさせた雷蔵のところまで駆け寄って、その背中をそっと叩く。
「どうしたんだ、一体」
「……なんでもない」
「なんでもないって——」
 くぐもった返事に、そんなわけないだろ、と言いたかったが、雷蔵はそれきりうんともすんとも言わなくなった。しばらく黙って背中を撫でてやっていたが、雷蔵は一向に顔を出さない。
 かん、かん、鐘楼が鳴る。もうすぐ夕餉の時間だ。雷蔵にも聞こえているはずなのにな、と三郎はひとつ溜息を吐いた。
「鐘がなってるよ、雷蔵。夕餉の時間だ」
「……」
「食いっぱぐれるぞ」
「……きみは食べにいきなよ。僕はいらない」
「きみだけおいていけないよ」
「……」
 とりつく島もない、とはこのことか。
「ねえ、らいぞ、それじゃあ窒息してしまうよ」
「……いいよ、べつに。窒息しても」
「雷蔵!」
 三郎はいよいよ雷蔵をそのままにはしておけぬと、土から大根を引っこ抜くように、腰に手を回して引っ張った。だが雷蔵は大根ほど素直に引っこ抜かれてはくれず、布団にしがみついて抜かれまいとしている。
「らーいーぞーおー!」
「い、や、だ!」
「もーっ、らいぞーって、ば、あっ!?」
 がたん、ととうとう襖が外れ、雷蔵は布団ごと押し入れから引きずり出された。
「あいたたた……」
 強かに腰を打った三郎がようよう顔を上げる頃には、雷蔵は一緒に引きずり出された布団を頭から被って、本格的に引きこもる体勢だ。
 三郎はこんもりと丸い塊に近寄って、背中とおぼしき部分をもう一度優しく叩いた。
「……ねえ、雷蔵。何があったかなんて言わなくてもいいよ。でも、なにか私にできることはないのかい。きみのためなら、なんでもするよ」
「……」
 たっぷりとした沈黙の後、雷蔵はひとこと、「ほうっておいて」とだけ、三郎に告げた。
 結局それから雷蔵は、布団から顔を出さないまま、今の今まで至ったのだった。

 そのときのことを思い返しながら、三郎は天井裏を駆ける。
(やはり中在家先輩か)
 あの雷蔵をあんな風にしてしまうのは、中在家長次以外にはいない。わかっていたことではあるが、悔しさに臍を噛む。
 雷蔵は——、だれにも、三郎にも言ったことはないが、中在家に想いを寄せている。そしてそれを、徹底的に隠している。まさに忍ぶる恋であった。三郎以外には気付いている人など一人もいないと断言できる。それくらい、水も漏らさぬ隠蔽具合である。雷蔵の優秀さあってこそできることだ。
 三郎が気付いたのは、しかし当然と言えば当然のことだった。顔を借りているのである。それも五年近く、もうずっと。彼がふとした瞬間に見せる瞳の揺れ、口角の緩み、声の調子。その理由が知りたくて観察に観察を重ねていれば、否が応でも気付いてしまう。雷蔵は、中在家に恋をしている。
 三郎は、雷蔵が誰にも黙っていることをこれ幸いと、雷蔵の想いを見て見ぬ振りした。だって実際、雷蔵に言われてもいないこと、三郎から言い出すわけにいかない。「雷蔵って、中在家先輩のこと好きなんでしょ」なんて、くのいち教室で交わされていそうな無邪気な問いを、口にできるはずがない。
 また、そうしたところで、どうなるものでもなかった。我々は忍者のたまごである。行き着く先は戦乱の世の、夜よりなお暗い闇の中である。乙女のように一時の恋にうつつを抜かして、残り少ない学園での貴重な時間をみすみす溝に捨てることもあるまい。
 だから、ひたすらに隠す、という雷蔵の選んだ道は、雷蔵らしい賢明な選択であるように思われた。

 六年長屋にほど近い廊下の天井から、三郎は床へと降り立った。あまり近づくと警戒線に抵触するから、このあたりが塩梅だろう。
 時分は折良く、臥待月が東の空にようやく昇ってくる頃合いだ。満月ほどではないが未だ光量の衰えない月明かりが差し、そろそろ忍ぶには向かない時間。そう考えるのは三郎だけではあるまい。その証左に、声が。
「仙蔵から聞いたが——昨日も——」
「ああ、それ——」
「——ほんとうに——?」
 むこうから声の主たちが近づいてくるより先に、三郎は裸足のまま庭へと飛び降り木の陰に身を潜めた。近くには水場がある。鍛錬帰りの六年生がよく利用する井戸である。
 案の定、近づいてきたのは夜の自主練を終えた潮江と七松で、時間を弁えて控えめではあるが、他の学年の長屋から離れているのもあって、話の内容を隠そうとするそぶりはない。二人の声は、三郎の潜んでいる場所までも良く届いた。
「それであいつは今日はさっさと寝てるのか」
「うん、明日は朝早くから街に出るらしい。茶屋でお相手と待ち合わせだそうだ。ほら、最近できたっていう……」
 潮江は自分で聞いておいて、その詳細には興味が無いらしい。七松が話すのを食い気味に遮って、大きな溜息をついてみせた。
「まったく、中在家長次ともあろうものが三禁にうつつを抜かすとは」
 雷蔵の想い人の名に、三郎の気が逸る。まさかこんなにすぐに知りたい情報が得られるとは思わなかった。彼らはまさに、中在家の近況について話しているところらしい。
 しかも、三禁、の単語まで出た。もちろん、忍者の三禁、「酒」「欲」「色」のことである。
 三郎の耳に、水音が響いた。水で身を清める間の声は聞こえなかったが、水音が途切れると再び七松の声が聞こえた。
「まあ、ちょーじは優しいやつだからなあ」
「ちぇっ、優しいだけで女が寄ってくるってかよ」
「……あれっ、文ちゃん、もしかして妬いてる?」
「馬鹿者、そんなわけあるか!」
 かこん、と桶が投げつけられる音と「いて!」という悲鳴を最後に、二人の上級生の気配は長屋の方へと去って行く。
 茶屋、待ち合わせ、昨日も。女、優しい、三禁。たった今聞いた単語をつなぎ合わせると、おもしろくない絵が浮かんでくる。潮江は最初に、仙蔵から聞いた、とも言っていたから、もしかしたら雷蔵は、そのときにでも同じ話を盗み聞いてしまったのかもしれない。だとしたら、今三郎がしているのと同じような想像を雷蔵がしたとしても、何らおかしなことではなかった。
(けしからん。雷蔵というものがありながら)
 三郎は木陰から月明かりの下へと姿を晒し、自室への道を戻ることにした。その顔が、妙に決意に満ちあふれ、毅然たる目つきをしていたことは、高く上った月しか知らない。

 ◆ ◇ ◆

 翌朝、三郎は誰よりも早起きすると、女物の衣を着て、黒髪の鬘をつけて、念入りに化粧をして、そうして見事な美女のなりをして学園を出た。出がけに小松田がぎょっとした顔をしたが、出門票に「鉢屋」とサインをすると得心いったらしく、ほがらかに「気をつけて〜」などと手を振って見送ってくれた。
 わざわざ女装などして出かけるのはもちろん、中在家の噂を確かめるためである。昨日の話では、茶屋で女と逢瀬を繰り返しているという。そうとしか取れなかった。それ以外の解釈があれば聞いてみたい、と三郎は思った。雷蔵の秘めたる恋に関することなので、もちろん誰にも話すわけには行かないが。
 三郎の計画はこうだ。中在家がその女と密会している茶屋を突き止めて、完璧な女装姿でこれ見よがしに中在家に抱きついてやる。女のほうには、余裕綽々で嫌味な視線の一つでもくれてやる。そうすれば、二人の仲がどれほどまで進んでいようとも、ぶち壊しにできる自信があった。それほどまでに今日の三郎の女装は気合いが入っていた。
 恐ろしい計画を胸に秘め、しかし表面上は楚々とした風情で、三郎は街へと向かう。道中は目立たぬよう、菅笠をかぶっている。おかげで道行く人の視線は気にならない。
 七松が言っていた茶屋には心当たりがあった。最近できたばかりの、といえばあそこだ。勘右衛門がよもぎ餅が絶品だと言っていた。耳の早い級友を持つとなにかと役に立つものである。
 一刻もかけて街へ辿り着き、通りを西へ東へと折れ曲がって向かった先。果たして、中在家はその茶屋にいた。噂通り、隣には女を侍らせている。それを見つけると、三郎は頭にかっと血が上る思いがした。
(ほんとに女と会ってやがる。目の下にくまを付けてる雷蔵がいるのに)
 雷蔵は、今朝には流石に布団から出て、三郎が念入りに化粧しているところについたての向こうから「おはよう」と声を掛けた。本人は取り繕っているつもりだろうが、その顔には声を殺して泣いたせいで隠しきれない疲労がにじんでいた。
「昨日はすまなかったね。少し腹が痛かったんだ」
「……うん」
「もう治ったから大丈夫。心配掛けたね」
「……雷蔵」
 たまらず三郎が名を呼んだのに、雷蔵は気付かないふりで話の矛先を変えた。
「そんな格好して、どこへ行くんだか知らないけど、あんまり人に迷惑かけるなよ」
「……うん」
 三郎の頭には、昨日雷蔵から言われた「ほうっておいて」の言葉がこびりついている。触れてくれるな、という強い警戒心が三郎にまで向けられているのを感じ、もうそれ以上何も言えなくなってしまった。

 今朝のことを思い出して落ち込みそうになるのをなんとか奮い立たせて、三郎はまず二人の席の近くに腰を落ち着けることにした。いきなり飛び込んで二人の仲を裂く前に、確かめないといけないことがある。
 菅笠を取って、茶とよもぎ餅を注文する。ご用伺いの少年が三郎の渾身の作に息をのむ音がしたが、気にしている余裕はない。歩き通しで疲れた足を気にする風に顔を伏せて、隣の会話に聞き耳を立てた。
 昨日の七松と潮江の会話は木の陰に隠れていてもよく聞こえたが、中在家の声はこれだけ近くに座っていても判然とはしなかった。唇を読むにしても、あまりまじまじと顔を見ては怪しまれてしまう。
 それにしても中在家は、女性を前にしてもにこりとも笑わない。普段と変わらない仏頂面で、なにかをもそもそ喋っている。あの恐ろしげな笑みはいただけないが、そうでなくともいくらでもやりようはあるだろうに。こんな調子では、自分が出て行かずとも遅かれ早かれ二人の仲は壊れるのではないか。
 だが三郎の予想に反して、お相手の女性は中在家の言葉に、熱心に相づちを打ったり、笑い声を上げたりしている。これといって美人でもなく、どこにでもいる女に見えたが、笑うと愛嬌があり、なによりやさしい声色をしている。
(ちゃんと聞こえているのか)
 感心すると同時に、なんだかその様子が、誰かに似ていて、ああ、そうだ、
(雷蔵に似ているんだ)
 そのことに気がついてしまって、三郎は余計に胸が苦しくなる思いがした。

 注文したよもぎ餅が運ばれてきても、三郎は手を付けずに、二人の声に聞き入っていた。
 相変わらず中在家の声は聞こえないが、女性の相づちや応えから、話は学園でのことに移っているのがわかった。もちろん忍びを育てる学校のことだなんてばれるような話はしていないだろうが、中在家が図書委員会の委員長で、委員会には他にも後輩たち所属していること、女性と中在家の出会うきっかけになったのがきり丸で、彼も図書委員であること、などを話しているのが読み取れた。
 それから、女性はしばらく相づちに徹していた。
 うん、うん、そうなの。へえ。それで?
 三郎はもどかしい気持ちでその相づちを聞いていた。はやく核心的なことを言ってくれないかと、願うような気持ちだった。御用伺いの少年が、さっぱり手を付けられない茶とよもぎ餅とを何度もちらちらと見ては物言いたそうにしている。三郎はそれにも気付かず、ひたすらに中在家の言葉を待っていた。
 それから、もそ、と不明瞭な声がしたかと思うと、女性はほがらかな笑い声を上げた。そして、内緒話をするように声を落として、言うのである。
「あなたはその子のことが好きなのね」
「……」
 中在家は否定も肯定もしなかったが、女性はそっかそっか、と一人で納得して、少し申し訳そうな顔をした。
「あなたにこうして付き合ってもらえて助かったけれど、それじゃあなんだか、悪いことしちゃったわね」
 それから女性は、三日間付き合ってくれてありがとう、お礼にもならないけれど、と中在家の代わりに会計を済ませて、なんの未練もなさそうに、一人で茶屋から去って行った。

 女性がいなくなって後、こっそり席を立とうとしていた三郎を呼び止めたのは、ご用伺いの少年ではなく、中在家だった。
「鉢屋か」
 何の前触れもなくもそっと見破るのは止めてほしかったが、こうもはっきり確信を持って見抜かれては言い逃れするのも阿呆らしい。
「そうです」
 あっさりと認めると、三郎はさっきまで女性が座っていた場所に無遠慮に腰を下ろした。しかたない、近くに座らないと、この人の声はよく聞こえないのだ。
「なにをしている」
「あなたが女性と密会しているという噂を聞きまして、ひとつ弱みでも握ってやろうかと」
「誰に?」
「誰に、とは?」
「……仙蔵か。昨日見られた」
 はあ、と勝手に納得される。三郎は嫌そうに顔をしかめた。顔が美女のままであるから、いろいろと台無しだったが。
 それから中在家が、誤解をしないでほしいのだが、と前置きした上で語るには、この話はきり丸がバイト先から持ってきたものだということだった。
 なんでも、女性は夫を亡くした未亡人で、子どももなかったことから実家に戻って暮らしていたが、ある日夫の両親から「夫の兄と再婚しないか」と文が来た。そこには、今度実家にまで迎えに行くと書かれていて、困っていたのだという。彼女は夫のことは愛していたが、嫁ぎ先は居心地が良い場所とはいえず、夫の兄など論外ということだった。このまま相手がいないでは無理矢理押し切られてしまいかねないため、既に次の相手がいると思わせようと、夫の両親が滞在している間だけ、中在家が恋仲の振りをすることになった。
 本来三日間の約束だったが、結局夫の両親は二日で諦めて帰って行ったため、今日は朝から呼び出されていたものの、お役御免ということでお茶だけして別れたと、そういうことらしい。
 苦労しながら聞き取った内容を咀嚼して、一言、
「紛らわしい」
と言った三郎に、中在家は少し疲れたような顔で答えた。
「仙蔵は、話を混ぜ返して面白おかしくしようとするところがある」
 ようするに、潮江は立花にわざと誤解させるような話しぶりで、まんまとからかわれたわけだ。結果としてそれを聞いていた三郎も、雷蔵も、同じように誤解した。そういえば七松は、あの時潮江の言葉に反論はしなかったが、同意するようなことも言わなかった。ただ「優しい」と中在家の為人を形容しただけだ。思えば七松だけは、あらかじめ本当のところを知っていたのだろう。
「まったく、余計なことを」
 と三郎は自分を棚に上げて立花をなじった。五年生の誰かが聞いていたら「お前がいうな」と呆れあれただろうが、幸いここには無口な中在家しかいない。
「まあ、そういうことなら、わかりました」
 もの申したいのをぐっと堪えて、三郎は今度こそ立ち去ろうと腰を上げた。すっかり固くなったよもぎ餅を口に押し込んで、冷え切った茶で喉に流し込む。ご用伺いの少年は、三郎が男の声で話し出したあたりから、できるだけこちらに視線をやらないようにと必死で目を逸らし続けている。
「おい」
 女装の極意など忘れて大股で歩き出した三郎に、中在家が声を掛けた。思いがけず大きな声——といっても、中在家にしたら、という程度のものだが——だったので、三郎はついうっかり振り返ってしまった。
「不破は……何か言っていたか」
「言うわけないでしょ!」
 ふん、と鼻息も荒く告げた三郎は、もう中在家を振り返ることはしない。中在家の、途方に暮れたような表情など、二度と見たくもなかった。

 ◆ ◇ ◆

 道中で衣を返して鬘を外し、顔もいつもの親友のものに変えて、三郎は忍術学園への道を朝とは反対に辿った。朝早いうちに出たので、まだ昼前である。街で用事を済ませても良かったが、一刻も早く雷蔵に、ことの真相を教えてやらねばと思った。
 行きはしずしずと歩いた道を、ずんずんと歩く。幾ばくも行かないうちに、三郎の足は徐々に勢いを弱め、やがて完全に立ち止まってしまった。
 最初は、雷蔵はどんなに喜ぶだろうか、と考えながら歩いていた。あんなに苦しそうに嗚咽を堪えていた雷蔵が、三郎の言葉を聞いて、安心したように笑う。なんだ、そうだったの、それならよかった。そう言って笑ってくれるところを想像した。
 だが、やがて三郎は、そんなことにはならないことに気付いてしまった。だって雷蔵は、この恋を誰にも秘密にしているのだ。それなのに三郎が、中在家のあの噂はデマだったんだって、と言ったとて、雷蔵は安心するどころか、なぜ三郎がそんなことを知っているのかと驚くだろう。秘密にしていた恋心を身勝手に暴かれて、むしろ愕然とするかもしれない。
 それなら、自分以外を介して、噂の形で雷蔵の耳にいれたらどうか。きり丸がことの発端なら、彼に頼めば上手いことやってくれるに違いない。あの子は一年だてらに、物の道理というのを弁えている。いくらか小銭を握らせれば、二つ返事で請け負ってくれるだろう。
 だが——とここまで考えても、三郎の心は晴れなかった。
 なぜなら、雷蔵の水も漏らさぬはずの忍びの心は、もう恋をせき止めきれずに、溢れかえってしまったのだ。それが、昨夜のあの涙であり、あの嗚咽であった。ついに耐えきれずに呼んだかの人の名前が、何より雄弁にそれを物語っていたではないか。三郎が眠っていると思っていたにしろ、あんな風に直接に雷蔵が想いを顕わにしたのは、あれが初めてのことだったのではないだろうか。
 こうなってしまっては、もうだめだ。もう二度と、あの想いを心の内に押し込めることは、雷蔵にはできないだろう。無理にそれをしてしまえば、今度は雷蔵の心が壊れてしまう。そんな予感がした。
 三郎は、実は、恋がなんであるか、よくわからない。
 わからないながらも、街や村で見かける人、道行く人、物語の中の人、ときには学園の関係者、そういった人々を観察してなんとなく知った気がしていた。甘くて、辛くて、不確かで。ときに命より重く、ときに紙より薄い。そんな漠然としたイメージを抱いていた三郎は、雷蔵の恋を知ってはじめて、恋というものを思い知った。
 雷蔵の視線の柔らかさに心が震えた。微笑みのやさしさに胸を打たれた。僅かにうわずる声に、自分まで緊張した。そうして三郎は、雷蔵を通して恋を味わったのだ。ひたむきで、一途で、無垢な感情を、まるで自分ごとのように享受した。
 幸せだった。雷蔵が幸せであることが、幸せな恋をしていることが、なによりも三郎の幸せだった。
 だから、雷蔵のあの慟哭は、その分三郎の胸を深く深く突き刺した。今まで雷蔵の恋の甘いところだけを味わうだけ味わって、それでいて見て見ぬ振りをしていた己への罰だと思った。
 なぜなら、三郎は知っていたから。雷蔵だけでなく、中在家もまた、雷蔵に同じだけの想いを抱いていることを、知っていて黙っていたのだから。

 結局、夕方までかかって、三郎はようやく忍術学園の門をくぐった。結論が出ないまま、とぼとぼと部屋まで戻って、雷蔵がそこにいるのを見てほっと息を吐く。雷蔵は、目の下のくまこそそのままだが、三郎の顔を見て一言、「おかえり」と声を掛けてくれた。
「あのね、雷蔵……」
 そう言ったきり黙り込んだ三郎にも、仕方ないとでも言いたげに、しかし何も言わずに微笑んだ。

 結局その日、三郎が雷蔵に中在家の噂の真相を告げることはなかった。

 ◆ ◇ ◆

 それから数日が経った。
 雷蔵は、表面上は普段通りに授業を受けている。しかし、目の下のくまは取れず、クラスメイトには「面白い本があって、読むのに忙しくて眠る間もなくて」と言い訳しているようだ。それが事実でないことは、三郎が一番よく知っている。
 ここのところ夜になると、雷蔵は悪夢に魘されるようになった。おおかた中在家の出てくる夢だろう。なるべく触れないほうがよかろうと思いつつ、あまりにも酷いときには、ついたてを回り込んで起こしてやることもあった。そうすると雷蔵は、「起こしちゃって、ごめんね」とすまなそうにするが、夢の中身については一切言及を許さなかった。
 三郎は三郎で、これまた眠れぬ夜を過ごしていた。雷蔵の魘される声で起きるのではなく、彼自身の悩みごとが、三郎から眠りを遠ざけていた。
 もはや三郎のすべきことは、雷蔵に事の真相を告げることだけではなかった。その上で、雷蔵の背を押してやらねばならなかった。だって、三郎は中在家の想いも知っている。雷蔵が一歩踏み出せば、二人の恋が成就することを知っていた。
 どうして、と問われれば、これもまた必然と答えざるを得ないだろう。雷蔵は自分の恋心を抑え込むのに必死で、それこそ恋は盲目というけれど、中在家のことを誰よりもよく見ていながら、その抱える想いにはまるで気付いていなかった。一方三郎は、もとより変装のために観察眼を鍛えていて、しかも雷蔵の隣で見ているものだから、見たくないものまで見えてしまう。それが、かの上級生が抱える、同室の親友に対する情愛だった、というだけだ。
 あの日、三郎が変装して中在家に会いに行った日。あのときに三郎に対して、しなくてもいい言い訳を並べたのがその証拠だ。三郎がどう誤解しようが、中在家は気にしないはずだ。ただ、三郎づてに聞くだろう雷蔵のことを、中在家は見過ごせなかったのだろう。
「きたならしい」
 ちっ、と三郎は舌を打つ。雷蔵が中在家に抱く感情は好ましくても、なぜかその逆は許せなかった。衆道など世間に溢れかえっているから、男同士に対する嫌悪感ではない。また、中在家個人に対して思うところがあるわけでもない。ただ、中在家が雷蔵を、と思うと、怖気が走るようだった。そんなこと、あってはならない。その理由までは思い至らずに、三郎はただ首を振る。
 しかし、それより何より三郎が許せないのは、あの日から今日まで、中在家がいたって普段通りに振る舞っていることだった。あんなに三郎を引き留めて女々しい真似をしたくせに、自分から雷蔵に声を掛けることはしないのか、と思うと、三郎のはらわたは煮えくりかえった。
 中在家が雷蔵に向ける気持ちをおぞましいと思うくせ、何もしないなら何もしないで腹に据えかねている。まったく矛盾した二つの感情に翻弄されて、三郎は夜も眠れない。

 そんな風だから、雷蔵も三郎も日に日に落ち込んだ。面を付けているからバレていないだけで、三郎の目の下にも雷蔵と同じようなくまができていた。食欲もなく、気力も無く、暗い表情の二人は見分けが付かない。
「そんなところまで似せなくても」
と笑っていられたのは最初の内で、一日、二日、と経つにつれてこれはただ事ではないと同級生一同固唾をのんだ。喧嘩をした風でもないし、謀っている風でもない。理由が分からなければ介入のしようがない。八左ヱ門が右往左往して二人に声を掛けたが、二人とも生返事でまともに聞いてもいなかった。
 そんなこんなである日の午前中、二人して実技の授業の最中にばったり倒れて、はれて二人は医務室送りとなったのだった。

「寝不足」
 と善法寺は断言した。
 医務室に並んで寝かされて、一人ずつ下瞼を下げられたり、口の中を覗かれたり、胸の音を聞かれたりして、下された診断がそれだったので、二人を医務室に運んだ八左ヱ門はへなへなと脱力した。
「なんだよぉ……もう……」
 俺はてっきり、なんかよくない病でももらってきたのかと思って。そう言って大げさに肩を落としてみせる八左ヱ門に、善法寺は保健委員長らしい厳しい声で言った。
「寝不足を甘く見ちゃいけないよ。それで死ぬことだってあるんだから。こんなに目の下にくまをつけて、よくも立っていられたものだ」
「……それ、潮江先輩にも言ってやったらどうですか」
「あれは寝たまま鍛錬するくらいだから、言っても無駄」
 なんだか微妙な空気が流れる中、善法寺は八左ヱ門を医務室から追い出してしまうと、薬棚から薬包を取り出して二人の手にそれぞれ載せた。
 それから、真面目な顔を崩さずに二人の顔を覗き込む。
「今日のところはこれを飲んで眠りなさい。心に閊えていることがあるなら、そしてそれは僕には言えないことなら、だれでもいい、新野先生でも、木下先生でも、五年生の仲間でもいいから、相談しなさいね」
「はい……」
「わかりました……」
 雷蔵ばかりか、普段は薬を飲むのを嫌がる三郎も、今日はもう逆らう気力も湧かなくて、言われたとおりに薬を飲んで、訪れる強制的な眠りに身を任せた。

 ◆ ◇ ◆

 声が聞こえる。雷蔵の声だ。
 雷蔵が笑いながら、誰かと話している。幸せそうな声だった。嬉しそうに、ときおりくすくすと笑って、頷いて、それからまた微笑む。
 雷蔵が笑っていると三郎は幸せだ。ふわふわとした気持ちで、一体誰と話しているのだろうと、三郎は雷蔵の横から彼の隣を覗き込んだ。
 中在家がいた。雷蔵のように笑いはしないが、すうと目を細めて、何か愛おしいもの、かわいいもの、うつくしいものを見るように、眩しそうにしている。中在家の視線はしかと雷蔵に向けられていて、雷蔵もまた中在家だけを見ている。
 急に自分がどこにいるのか分からなくなって、三郎は立ち尽くした。不破雷蔵あるところ鉢屋三郎あり、なのに、雷蔵は三郎の方を見てくれない。三郎ばかりが雷蔵のことを見つめている。
 行かないで、雷蔵。
 私を置いていかないで。
 声にしたはずの言葉は音にならず、雷蔵は中在家と二人でどんどんと先へ行ってしまう。もっとちゃんと、言葉にしないと。聞こえない。振り向いてもらえない。行ってしまう。置いていかれる。雷蔵。
「行かないで……!」

「ここにいるよ、三郎」

 宙に伸ばした手を掴まれた衝撃で、三郎は目を覚ました。
 暗がりに、雷蔵が身を起こしてこちらを覗き込む気配がする。己の荒い呼吸が、薄暗い室内に響いていた。りいりいと虫の声がする。月のない夜に雷蔵の姿を捉えることは難しかったが、しかと握られた手の温度に、三郎は意識して深く息を吐き出した。
「雷蔵、起きてたのか」
「うん、ついさっきね」
 昼間、強制的に薬で眠らされたせいで、二人して夜中に目が覚めてしまったということか。寝入ったときと同じ医務室、部屋には二人きり。いつもと違う布団と枕が急によそよそしく感じられて、三郎は仰向けから雷蔵のほうに体を向けて寝返りを打った。
 雷蔵は三郎の手を握ったまま、起こしていた体を再び布団に横たえると、まるで鏡映しのように、三郎のほうに体を向けた。
 そうして二人向かい合って手を繋いでいると、まるで子どもの頃に戻ったみたいだった。一年生だって、こんな風に手を繋いで寝たりしないだろう。そう思うと、なんだか気が抜けて、おかしくなって、三郎は一人でくつくつ笑い出した。
「なに笑ってるの?」
「だって、これじゃあ子どもみたいだ」
「たまにはいいじゃない」
「うん、たまにはね」
 暗闇の中、二人は指を絡め合った。手のひらをくすぐり合って、途中から指相撲になって、最後はじゃんけんをして、あっち向いてホイをして、雷蔵がそっぽを向いて、負けた。
 三郎の方を見ないようにしたまま、雷蔵がぽつりと呟いた。
「気付いてるんだろ、僕のこと」
「うん……」
「ずっと心配掛けた。悪かった」
「雷蔵は悪くないよ。悪いのは私だ」
 慌てて謝る三郎に、雷蔵がくすりと笑う。
「それこそ、三郎が悪いわけない。まったく、なにをそんなに悩んでいたのさ。僕みたいだったよ」
「雷蔵にそう言ってもらえるなんて、光栄の極みだな」
 それからしばらく黙っていても、雷蔵はそれ以上なにも言わなかった。でも、三郎を拒絶している雰囲気でもなかった。
 その雰囲気に後押しされる気持ちで、三郎は勇気を出して、とうとう告げることにした。
「雷蔵が好きなのが、私だったら良かった」
 一世一代の告白だった。
 それは三郎の切なる願いだった。こうだったらいいのに、という叶わぬ願いだ。
 そしてもう一つ。
「私が雷蔵を好きだったら良かった」
 そうだったら、どんなによかっただろう。
 雷蔵が、おずおずと、しかし苦笑を隠しきれない様子で、口を挟んでくる。
「なにそれ。僕のこと嫌い?」
「そんなわけない。大好きだよ」
 でも、とその続きは声には出さない。
 それでもこの感情は、恋ではなかった。
 大好きで、他の何者にも代えがたく、一番大切だが、それでも雷蔵と恋仲になりたいとは思わない。雷蔵のことは信頼している。雷蔵のためになら、命だって擲っても構わない。
 それなのに、これは、この想いは、恋ではない。
 恋ではないのだ。
 三郎はそのことをようやく認めた。叶わぬ願いという形で吐き出すことで、己の感情に決着を付けた。
 ——これでようやく、言える。
「中在家先輩は、君のこと、憎からず思っている」
「そんなこと……」
 急に核心に迫られて、雷蔵の気配が強ばる。ずっとこうすべきだった。友として、こうやって、背中を押してやればよかったのだ。
 行動に移さない中在家にイライラしたのは、自分もまた行動に移せないということから目を背けたかったから。雷蔵と中在家の間の問題ではない。これは、最初からずっと三郎の問題だったのだ。
 三郎はあの日に見聞きしてきたことを包み隠さずに告げた。雷蔵に黙って六年長屋まで偵察に出たことまで話せば、呆れられたけれど、雷蔵は最後まで聞くと、なんだ、そうだったんだ、と、いつか三郎が想像したように、ほっと息を吐いて笑った。
「想いを告げてごらんよ。きっと叶うよ」
 三郎は意識して優しい声を出した。きっと雷蔵だったらこんな風に言うだろう。頭の中の雷蔵を真似る。三郎にとって雷蔵は、いつだって道しるべだった。あたたかな陽の光そのものだった。
 そのぬくもりを、手放すのは惜しい。行って欲しくないのに行けというのは辛い。でも、雷蔵のためを思うのならば、三郎がすることは一つだ。
「大丈夫、きっと大丈夫だ」
「三郎が、そう言うなら……」
 布団を口の上まで引っ張り上げて、恥ずかしそうに頷いた雷蔵に、嬉しい気持ちと、寂しい気持ちがない交ぜになる。
 三郎はあえて混ぜっ返すように、明るい声で雷蔵をからかった。
「私の雷蔵ではなくなってしまうね」
「僕はおまえのものになった覚えは一度も無いけどね」
「ケチだなあ、顔は貸してくれるのに?」
「貸してるだけだ、お前のものじゃないよ」
 雷蔵とやりとりをしながらも、三郎はじわじわと涙がこみ上げてくるのを止められない。鼻声になりそうで、声が震えてしまいそうで、三郎は反対側に寝返りを打った。そしてぼそりと、聞こえるか聞こえないかの声で言うのだ。
「雷蔵……たまには、私のことも思い出してくれよ」
「なにそれ」
 耳のいい雷蔵は、聞き逃したりはしなかった。急に真顔になって、三郎の肩を掴んで強引に向かい合わせになる。
「おまえ、どこかへ行ってしまうの?」
「行ってしまうのは雷蔵のほうだろ……」
 見えなくとも涙目になっているのはバレているはずだ。もうやけになって、ぐしぐしと乱暴に目元を拭った。止めろと言う代わり雷蔵は、掴んだままの肩を引き寄せて、三郎を胸元に抱き寄せた。それから子どもをあやすように背中を叩く。
「一体どこに行くっていうのさ」
「だって雷蔵は、中在家先輩のものになってしまうんだろ」
 さっき「お前のものではない」と強烈に否定した雷蔵は、今度は否定しなかった。そのことに三郎が落ち込むより先に、雷蔵は腕の中の三郎を抱き締めて、しどろもどろに言うのである。
「た、たとえ僕がその……中在家先輩と、そういうことになったとしても」
 三郎の耳元で、雷蔵の心臓の音が鳴っている。
 雷蔵の鼓動は一定で、三郎のために高鳴ったりはしない。三郎だってそうだ。雷蔵の言葉に一喜一憂することはあっても、胸の鼓動は高鳴らない。
 そのことを、三郎はもう悲しまない。
「おまえが僕の一番の親友であることは、変わらないだろ」

「ああ。不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎あり、だからな」
「うん。鉢屋三郎あるところ、不破雷蔵あり、なんだから」

 雷蔵が、三郎の居場所である限り。

(終わり)


おまけ

「あー、いやだ、もう、僕、かっこ悪い」
「どしたの。雷蔵はかっこいいよ」
「なにが、かっこいいわけあるか、迷い癖だけでも散々「三病だ」「忍者に向いてない」って言われてたのに、三禁まで破ったらもうおしまいだと思って、必死に隠してたのにさ」
「そういう理由だったの、あれ」
「何だと思ってたの?」
「私にも言えないことだと思ってた」
「まさか。おまえに言えないことなんて、あるはずないよ」

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