ワードパレット:lunar phase

10,401 文字

21

21番「居待ち月」 雷蔵

他愛ない/口実/隣に座って


 虫の音もさやかな夜である。良く晴れて、風もない。夕餉の時間もとうにすぎ、五年長屋はひっそりとしていた。五年生ともなれば、夜間に自主練に向かう者も多い。このように良い夜であればなおのこと、今夜は多くの生徒が長屋を留守にしている。
 雷蔵は、しかし大多数のように外出はせずに、自室の前の濡れ縁に座って一人、本を読んでいた。
 部屋から持ち出した灯明の火が、膝の上に広げた本の字を照らす。図書委員の特権で仕入れた、最近流行の御伽草子である。物語の筋もわかりやすく、文章自体もかなで書かれていて読みやすい。ふだんであれば四半刻もあれば読み終わってしまうような他愛ない内容の本を、四書五経を読み下すがごとく、雷蔵はことさらゆっくりと読み進めた。
 そうして、どのくらい経っただろうか。いくら時間をかけようとも、物語はいつか終わる。指が最後の頁にかかろうとして——何かに気を取られたように、ぴくりと止まった。
 顔を上げる。
 庭の松の木の向こうに、昇りはじめた欠けた月。その下に目を凝らせば浮かび上がる一つの人影。
 雷蔵の見ている前で、影は庭木の枝を蹴り、池の畔の岩を蹴り、隣の長屋の屋根を蹴り。気が付けば彼はすぐ隣に座って、雷蔵が読みさした本を覗き込んでいる。
「なに、読んでたんだ」
 第一声がそれだったから、流石の雷蔵もむっとする。三郎の視界から隠すように本を閉じて、ちょうど良く差し出された頭をぽかんと叩いた。
「あいてっ」
「もっと先に言うことがあるだろう」
 思ったより力がこもったのも無理はない。
 急ぎの用事だと学園長に呼び出され、そのまま挨拶もせずに出ていって三日。丸かった月は欠け、月の出はどんどん遅くなる。空手で待つにも手持ち無沙汰で、口実の本まで用意した。
 心配なんて、しやしない。彼に限って、学園長のおつかいごときでへまをするとも思えない。それでも、ちゃんと帰ってきたのであれば、もっと他に言うべき言葉があるはずだ。
「……ただいま」
 これで合っているだろうかと、三郎がおずおず顔を上げる。その様子がまるで叱られた犬のようで。ほっと息を吐くと同時、思わず笑みがこぼれた。
「おかえり、三郎」
 一番にこの言葉を伝えたい。雷蔵が待つ理由は、きっとそれだけだった。

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