few years later

1,762 文字

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 いつからここは、これほど静かになったのだろう。
 窓から薫る風がおくれ毛を揺らす感覚、春の香りは届けども、なんの声も乗せていない味気ない風に、悠舜はなぜだかとても切ない気持ちになった。
 ことり、手に持った筆を置いて窓を振り返れば、美しい春の庭が見える。萌え出る草花の芽、綻んだ花のつぼみ。陽光はさんさんと降り注ぎ、いざ春を謳歌せんと万物に呼びかけるようだ。
 それなのに、いくら耳を澄ましても悠舜には人の声がひとつも聞こえなかった。遠くでとんびが鳴く声が、雀が番を呼ぶ声が、風に木々がさざめく音が、通りすがりの猫がぱたりと尻尾を振る音が、するだけで人の気配がない。
 他愛ない笑顔や、子供のような悪ふざけ、大人げない口喧嘩、そういった喧騒がひどく遠いもののように思われる。距離ではなく、遠いように。
 それも仕方がないか。机案の奥にあった羽扇に手を伸ばしながら、悠舜は思った。
 花菖蒲を下賜された二人は、今やそれ相応の地位について久しく、そうべったりと主の傍に侍ることのできない身分になった。なにかと面倒事を呼び込んだ吏部の尚書は、結局朝廷を辞して今は紅州に戻っている。百年後も矍鑠としているだろうとだれもが疑わなかった朝廷三師だが、宋太傳は昨年の訓練中に腰を痛め、今は自宅で療養生活中だ。霄太師はふらっと姿を消したまま、その行方は洋として知れない。
 いればいたでうるさかった彼らも、いざいなくなってしまえば懐かしさだけが残る。
 少し前までは新進士たちがうろちょろと朝廷内を行き来したものだけれど、春の除目が終わってしまえば一気に落ち着きを取り戻す。そのせいで余計そう感じるのかもしれない。
 所詮、人はないものねだりばかりする生き物だ。変わらぬものなどないと知りながら、変わってみないとそのありがたみに気がつかない。
 その人間の性を愚かだとは、悠舜は思わない。だからこそ愛しいと――まるで人を上から見ろすような考え方に自分でも苦笑が漏れる。くすりと笑って、そこで思考を打ち切った。

 手に取った白羽扇は、未だ下賜された当時と変わらぬ白さを保っているように見えるが、何度か羽を取り換えているからそう見えるにすぎない。暑いわけではないが、手持無沙汰にはたはたと軽くそれを揺らしていると、廊下の奥がにわかに騒がしくなった気がした。
 会議が終わったのだろう。さほど重要なものではなかったから悠舜は出席しなかったが、彼が仕える主は何か興味をひかれるところがあったらしく、ひとり様子を見に行っていたのだ。
 かつり、かつりと沓が床を蹴る音は、きっとその彼のものだ。ゆったりとしていて、しかし淀みない足取り。ぱたぱたと忙しない歩調で歩きまわっていたのが変わったのは、いったいいついからだったろう。明確にそれが「いつ」と思い出せるはずもないのだけれど、知らぬ間に変わったわけでもないはずなのに。

 かつん。足音が途絶える。
 付き人に書類を持たせて室に戻ってきた主に、悠舜は目だけで礼を示した。立ち上がって迎えないのは、いちいちそうしなくてもよいという主のおおらかな人柄のためと、なにより悠舜の足が役立たずなせいだ。ひとりで立つこともままならなくなった足のかわりに、今は車付きの椅子が欠かせなくなった。
 付き人が退室するのと劉輝が椅子に体を預けるのはほぼ同時で、それを見計らって悠舜は声をかけた。
「いかがでしたか」
「それなりに収穫はあった」
 ちらりとも悠舜を見ず、かといって視線はどこへ向けられるわけでもない。怜悧な横顔はいつの間にか先代陛下を彷彿とさせるようになった。恐ろしく整っているが、鋭く、冷たい氷のような。
 彼は変わっただろうか。
 確かに、あまり笑わなくなった。あまりおしゃべりしなくなった。あまり走らなくなった。あまり頼らなくなった。あまり悩まなくなった。そして、絶対に泣かなくなった。
「悠舜。そろそろお茶にしよう」
「はい、主上」
 それでも、彼は手ずから茶を入れることを厭わず、また悠舜の車を押して自分の机の傍まで移動させることも当たり前のように行う。
「……どうかしたか?」
「いいえ、なんでも」
 知らず知らずのうちに笑っていたらしい。少し戸惑ったように片眉を下げる彼の顔がなにやら懐かしい雰囲気を醸し出していたので、悠舜はまた笑った。

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