囲碁指南

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 あの手狭な執務室もそれはそれで居心地が良いのだが、悠舜が尚書令に就任してからというもの、専ら彼の執務室に入り浸る癖が付いてしまった。もちろん、入り浸るといっても四六時中本来の執務室を留守にするわけにもいかないので、僅かな休憩の合間を縫って訪うようにはしているのだが。

 今日も今日とて、この国で一番の地位と権力を持っているはずの青年は、供もつけずに悠舜の執務室にいた。室の主が入れてくれた茶は、この時期貴重な紅州産の茶葉である。芳しい香りが湯気とともに陽光に溶けてゆく。
 一番陽がよく当たるお気に入りの席で、劉輝は悠舜と向かい合っていた。無論、お見合いのように膝を突き合わせているわけではなく――碁盤を挟んで。

 「負けてしまいましたか」
 指す場所を決めかねて、盤を見つめながら右手の中で碁石を弄んでいた劉輝に、悠舜がそっと話しかけた。一瞬えっ、と詰まるが、それが今の試合のことではないのは明白だ。
 悠舜はとにかく強かった。試合の後に振り返ってみると、まるで自分の手すら台本に書いてあったかのように全てがぴたりと嵌っている。打っているときは分からなかったことが、全てを終えて見返せば鮮明に意味を持って浮かび上がってくる。言うまでもなく、悠舜との対局成績は零勝全敗である。
 そう考えると、彼が言っているのは先日の楸瑛との一局の、しかも劉輝自身のことだと思い当たった。その件については、あの日のうちに報告済みである。
「ああ、負けてしまった。……悠舜に特訓してもらったのだが、それが生かせなかったのだろうか」
「特訓ではなくて、私が陛下に碁のお相手をお願いしていただけですよ。それに、仕方がありませんね。藍将軍は風流人でいらっしゃるから、このような遊技には陛下よりも精通しておられるでしょうし」
 両手で茶器を支えて一口茶を飲んでから、悠舜がまた盤上に視線を落とすのに倣って、劉輝も自分の手を模索しようとするが、浮かぶのは別のことだった。

 貴妃騒ぎの頃からいつも傍に寄り添ってくれた楸瑛に、休暇を出した。今まで藍家や羽林軍の用で彼が暇を申し出たことはあったが、何も言わない彼にこちらから休みを与えたのはほとんど始めてといってよかった。
 彼がここ最近、ふとした瞬間にぼんやりと遠くを見ていることに気付いたのはいつだっただろうか。ただでさえ自分には鈍いところがあるのだから、自分が気付くよりもずいぶん前から何か悩みを抱えていたのだろう、と劉輝は思う。彼が何を悩んでいるのかは分からない。それでも何か、力になってやりたいと思ったのだ。だから――

 そのようなことを考えながら盤を見ていた劉輝をどう思ったのか、悠舜は少し苦笑いしながら言った。
「そんなに特訓して欲しいのならば、して差し上げましょうか? もちろん政務が終わった後で、ですけれども」
 その言葉に、劉輝は顔を上げた。まっすぐに悠舜を見つめて、口を開く。
「余は、いったいどこに打てば良かったのだろうか」
 一瞬目を細めて、そうですね、と前置きした後、彼は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「碁というのは、指す人によって最善が変わるものです。最終的に何を目指すのか、十手、二十手、五十手後に何を思い描いているのか、それは人によって違いましょう。ですから、私が陛下のお立場に立って打つ手が、今の陛下の最善の一手かどうかはわかりませんね」
「そうか……」
 とたんにしょぼくれたように項垂れる劉輝が、まるで子供か、もしかしたら主人に怒られた犬のようにも見えたのかもしれない。悠舜は彼独特の、全てを包むような笑みを浮かべた。
「でも、陛下があの時打った手が、陛下にとっても《彼》にとっても、最良の一手だったと思いますよ」
 再度、勢いよく上げた顔の先にその微笑みを見つけて、劉輝はなんだか、子供が母親に抱きつくように目の前の彼にそうしたい、と思ってしまった。残念ながら母に抱きついた記憶を持っていなかったためそれは想像でしかなく、実際に実行に移すこともできなかったのだが。
「……本当に余はとんでもない拾い物をしてしまった」
 その代わり、照れたように笑って、なんとなく雰囲気を誤魔化すように頬を掻きながら盤に石を置く。

 ――その一手にすかさず容赦のない厳しい駄目だしが入ったのは、余話である。

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