七日に一度の公休日、その次の日の朝、外朝に出仕した景柚梨はちょっとした違和感を覚えながら戸部までの回廊を渡っていた。違和感の正体は今のところ不明である。先週末の仕事のやり残しを思い出したとか、大事な書翰を家に持ち帰ったまま持ってこなかったとか、そういったことではない。もう少し些細で、それでいて重要な何か――。
(うーん、なんでしたっけねえ)
結局その正体を掴めないまま目的の室の前まで来てしまった。まあそのうち分かるだろうと高を括って扉を開ける。
「おはようございま……す?」
挨拶の声も思わず喉で止まる。そうして目に入ってきた光景に、ようやく柚梨は違和感の正体を見つけるのだった。
***
室の空気がいつになく重い。寒風が吹き荒んでいるといってもいい。柚梨は溜息をついて隣の机案についている人物を覗き込んだ。……まるで表情が伺えない。
普段、なるべく《彼》を見ないようにしている他の官吏たちも、今日ばかりはちらちらと此方を気にしているのが分かる。それらの視線の中には、まるで柚梨に「なんとかしてくれ」と懇願しているような視線も含まれていて、柚梨はほとほとうんざりしていた。大体、一年前に《彼》が戸部に配属されて以来、まるで専属の通訳のように《彼》に関する全てのことが柚梨を中継するようになっているのである。
(なんとか、と言われましても……私だって困ってるんですよ)
振り返って言ってやりたい言葉をぐっと飲み込み、柚梨は再び書翰に向かった。いつまでも隣の様子を伺っていたって、仕事は後から後からやってきて増えるばかりだ。上司が私服を肥やすことにしか関心がないのだから、下官がきっちりこなしていかないとこの国の財政は立ち行かない。柚梨の内心を読み取ってくれたのか、時々視線が向けられるのは相変わらずだが、皆もぎこちなく各々の仕事に戻っていった。
昼時、一人また一人と官吏が室を出て行き、《彼》と自分だけが残される状況に至って、ようやく柚梨は隣に声をかけた。
「……鳳珠」
「なんだ」
その《くぐもった声》に、柚梨はこめかみを揉んだ。この状況になっても未だ書翰に筆を入れるのを止めようとしないこの年下の同僚に今日ほど呆れたことはない。なぜなら、
「あなたねえ……その仮面は一体どうしたって言うんです」
「……」
昨日までは確かにその麗しい美貌を惜しげもなく曝していたというのに、今日は一体なんだというのだろう。はっきり言って奇怪・不審・変態じみているその姿こそ、柚梨が今朝感じた違和感の正体だった。
普段なら、この天性の麗質の主が出仕した道筋には、朝からその人ならぬ美貌に魅せられた不幸な官吏たちの魂の抜け殻が転々と転がっているものなのだが、今日に限ってはその抜け殻たちが忘我というより呆然と言った顔持ちで突っ立っていた。その違いがこの仮面によるものだとすれば全ては得心がゆく。
柚梨は心底呆れたという風に肩を竦めて溜息をつき、さっと立ち上がり鳳珠の後ろに回りこんだ。
「なんて格好してるんですか。今更あなたが周りの視線を気にし始めただなんて信じませんよ。こんなものをつけてくるなんて、官吏たるものの礼節に悖るじゃあないですか」
そうして、彼が何か言う前にさっさと紐を解いて仮面を取り上げてしまった。
「おい! こら、柚梨!」
うっかりしていた鳳珠は、すぐさま仮面を取り返そうと振り向いて彼の腕を捕まえ、そしてそのまま硬直した。《何のために仮面をしていたのか》ということをすっかり失念していたのだ。気付いたときにはきょとんと目を瞠っている柚梨の視線と真正面からぶつかってしまっていた。
「鳳珠……そ、それ……っ」
暫く呆然としていた柚梨はみるみるうちに破顔し、終いには声を上げて笑い出した。
「わ、笑うな……!」
「はっ、はははははっ! だってほ、鳳珠、あなたそのほっぺた、く、はははははははっ!」
憮然とした表情を作られても、それすら柚梨には可笑しくて仕方がなかった。それもそのはずである。
「はは、その手形、さては女人ですね……っ」
まだ苦しそうに言葉の端々に笑いを滲ませている柚梨を恨めしそうに睨みながら、鳳珠はその左頬にくっきりと浮かび上がる手の跡を左手で覆い隠した。
***
ぼそぼそと事の経緯を詳らかにしてゆく鳳珠に茶を淹れてやりながら、まだ書翰に占領されていない小さめの卓の反対側に柚梨も腰を下ろす。それから自分で淹れた茶を一口啜った。暖かい湯気に気分が落ち着く。
「はあ、まあ大体わかりましたよ。おかわいそうな鳳珠、顔のせいで女性に振られたなんて。……はいはい、すみませんでした。怒らないでください」
例の面妖な仮面は、今は卓の上に乗せられていた。仮面越しでなく直接びしびしと伝わってくる不機嫌に、柚梨はなるべくすまなさそうな顔をして謝った。相手の顔を伺うに、どうもその試みのほとんどは失敗だったようだが。
なまじ綺麗な顔をしているだけあって、張られた頬の赤味は痛々しいまでに目立っていた。もともと繊細な肌をしているのだろう、おそらく昨夕にでも付けられたその跡は一夜がたった今でも指の跡までもが鮮明に残っている。
開き直ったように手形の残る頬を曝して茶を飲む同僚を、柚梨は見やった。
「でも、振られただけならそんな跡をつけてくる理由がないでしょう。よっぽど豪胆な姫でない限りは」
「……」
柚梨としては当然の疑問を抱いただけなのだが、それすらも気に入らないらしい。黙秘を続ける鳳珠に、柚梨はお茶請けの干菓子を一つ摘んだ。
話したくないことを無理に聞き出す趣味もない。かといって目の前の美貌を眺める度胸も――今日ばかりはいつもと違う意味の度胸が必要だったが――ない。気を抜くとまた笑いがこみ上げそうになるのを視線を手元に落とすことによって抑えながら、柚梨はのんびりとお茶を楽しんだ。
四半刻かそれよりもう少し短い間、戸部執務室には一概におだやかと言い切ることもできない沈黙が流れていた。それを破ったのは黄鳳珠である。
「柚梨」
「は、い……っ!?」
突然の呼びかけに顔を上げるのが早かったか、強引に腕を引かれるのが早かったか。自分の身が卓のほうへと傾ぐのを止められないままに、来る衝撃に備え目を瞑ろうとして――できなかった。え、と間抜けな声を上げたが最後、視界一杯に広がったのは傾城の美女も唸るだろう美貌。
「んん……っ」
時間にしたらおそらく一秒か二秒。抗議の声を上げようとしたら、《それ》はあっけなく離れていった。さっと離れていった後姿にすがることもできず、力の抜けた身体は丁度よく椅子の中に納まった。卓越しに強く押し付けられたぬくもりがまだ唇の辺りを彷徨っているような気がして、思わずそこに手をやってその感触を確かめる。
「な、なにを、今……」
呆然としている間に、とんでもないことをやってのけた張本人は卓の上の仮面を再び身に着けてさっさと仕事机案に戻ってしまっていた。ようやく忘我の淵から生還した柚梨は、ガタンと乱暴に椅子を蹴り立ち上がる。今日ばかりは穏やかな人柄で知られる柚梨も黙っていられなかった。
「あ、あのですねえ鳳珠!」
「――ということを百合姫にしたら叩かれた」
「は、はい?」
柚梨は背中越しに脈絡もなくぽんと投げつけられた言葉をゆっくりと咀嚼した。つまり何か。振られた次の瞬間に女性に無理矢理接吻をしたということか。というか、それよりもさらに珍妙なことをしなかっただろうか、この男は。柚梨は混乱する頭で考えることを放棄して、声を荒げた。
「そりゃあ叩かれもします! 何やってるんですかあなたは! だ、大体ですね、……」
「景官吏?」
突然よそよそしい声で呼ばれ柚梨ははっと後ろを振り返った。休憩から戻ってきた官吏の一人が扉の前で困惑したように立ち尽くしている。どこから聞かれていたのかは分からないが、これ以上口論を続けているわけにはいかなくなった。仕方なく彼にわざとらしい笑みを返してから自分の机案に戻る。
仮面のせいでどんな顔をしているのかさっぱりわからない同僚を恨めしく思いながら、柚梨は自分だけがこんなに気を荒げている風なのが馬鹿らしくなって、努めて平常心を心がけながら筆をとる。
「あなたって人は誰にでも接吻するんですか? まさかそんな悪癖を持っていらしたとは、一年も気付かなかった私が迂闊でしたよ」
小声ながら憎々しげに、隣の机案に座る彼にだけ伝わる声量で呟いて、釈然としない思いを胸に柚梨は午前中の仕事の残りを片付け始めた。
今日は思うように仕事が捗らない。
蛇足
実際のところ、なぜあんな行動をとってしまったのか自分自身でもよく分かっていなかった。百合姫のとき然り、つい今しがたも然り。
騒ぐ心を落ち着けようと無理矢理仕事に打ち込んでいる隣の机案の彼にはわからないだろうが、鳳珠も仮面の裏側でずいぶんと困惑していた。
百合姫のことはともかく、柚梨にまで口付けてしまったのは自分でも予想外だった。あのときの心理状態を説明しろといわれてもたぶんできない。というか、寧ろ説明してくれる人がいるならばして欲しかった。
彼と知り合ったのは自分が進士の研修期間を終え戸部に配属されてからなので、かれこれもうすぐ一年。出会った頃から穏やかな笑い方をする人だったが、今日のように明け透けな笑い声を聞いたのははじめてだったような気がする。
笑われたのには腹が立ったが、それ以上にその明るい笑い声と綺麗な顔に心が震えたのだと言ったら、この年上の同僚は怒るだろうか。
穏やかといえば聞こえがいいが、彼の場合は感情の起伏が緩やかすぎるのだと思う。それが彼本来の性質なのか、それとも心がけによるものなのかは分からなかったが、心底困ったり、心底怒ったり、そういった顔を見たことがなかった。笑みにしたって、なにか面白いことがあれば優しく笑うが、それだけだ。もっとも、今日ばかりは朝から呆れたり笑ったり怒ったりと忙しかったようだが、それも鳳珠のあまりに突飛な行動に調子を乱されていたからだろう。
内心を表に出さない、それは狐狸妖怪が跋扈する朝廷ではよく身を守る技かもしれない。しかし――
(それだっていわば《仮面》だ)
彼のような穏やかな笑みを、鳳珠は知っていた。最近は凍えたように不自然な笑い方しかしなくなってしまったけれど。まさかとは思う、しかしあんな笑い方だけは柚梨にはして欲しくなかった。
だから。今日の彼の明るい笑い声に釣られて、もっと他の表情も見てみたいと思ってしまったのだと、鳳珠は己の行動にそう結論付けた。同性に口付けたことの如何は既に頭にないらしい。そのぶっとんだ思考回路こそが、後に奇人と呼ばれることになる素質を見事に表しているのだが、本人は気がつかない。
彼の心からの笑みは、鳳珠をして綺麗だと思わせた。顔の造作ではない、その内面から溢れるような笑顔が。そして案の定、彼の怒った顔もまた綺麗だった。
ふと、口元に残る違和感に鳳珠は首を傾げた。薄荷の味がする。出所を探って、そういえば柚梨が茶菓子にと持ってきていた落雁が薄荷の匂いをさせていたなと思い至る。はて、自分は口にしていないはずだが、と考えたところで原因に思い当たった。
彼と唇を合わせたから。まるで初恋の少年少女のようにそっと重ねただけの唇から、ほんのりと薄荷の味が移ったのだと。
一度気づいてしまうとその香りにさえ徒に心を騒がされるようで、かすかに顔が熱くなる。
薄荷の味が今も口元に残っているような感覚を、鳳珠はその後ずいぶん長い間感じていた。


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