いかなる恵みぞ かかる身をも
妙なる救いに 入れたもうとは
この身も嘗ては 世の闇路に
彷徨い出でたる ものなりけり
救いに与り 日々保たれ
かくあることさえ くすしきかな
み国に至らば いよよせちに
恵みのみ神を 讃えまつらん
宵闇の中、本邸と離れを結ぶ回廊を渡っていた黎深は、庭院に立つ人影をみとめて立ち止まった。
この邸に住まわせてもうすぐ一年になろうという彼は、薄物の単一枚というまるで季節と時間を考えていないような格好をして立っている。《たそがれ時》というだけあって、ともすれば薄闇にまぎれそうな姿を見つけることができたのも、白いその衣のせいだった。
「悠舜、風邪をひくぞ」
ゆっくりと振り返る姿を危ういと思ったのは、彼の不自由な足のせいだろうか。悠舜はこちらを見て綺麗に笑んだ。その笑みに、また心が騒ぐ。
「夕焼けを、見ていたのです」
「もうとっく沈んだじゃないか」
悠舜が立っているのは池のほとりで、とても夕焼けを見ているようには見えなかった。それに、日はとっくに沈んで、昊に微かに陽光の兆しを残しているだけである。
その場を一向に動こうとしない彼に焦れて、黎深は欄干を飛び越えて庭院に降りた。乱暴な所作に悠舜は少しだけ目を見開いて、すぐに苦笑に変える。
「黎深、もう少し身分をわきまえた行動をとられては?」
「ここは私の庭院だから、私がどうしようと関係ないだろう」
歩み寄って、自分の着ていた羽織を肩にかけてやる。そのとき微かに触れた腕がびっくりするほど冷たくて、黎深は呆れた。
「こんなに冷たくなるまで、一体何をやってたんだ」
「夕焼けを――」
「悠舜」
まだそんなことをいうのか、という批難の眼差しを送れば、彼はようやく折れた。
一年という、短いのか長いのか判然としないこの月日の、わずかな成果の一つである。彼に対しては下手に出てはいけない。彼は真っ直ぐな問いかけには回答を返す、ことが多い。
「……一年ですね」
丁度考えていたことを当てられたかのようなその言葉に彼の横顔を伺う。静かな瞳は昊を見ている様でもあり、もっと遠いところを見ているようでもあった。
今目の前にいるはずの彼が、なんだか遠い。
「いかなる恵みぞ、と思いまして」
「……」
「あなたがたと出会って一年が経ったんですよ。この出会いに感謝しなければな、と、そんなことを思っていたんです」
なにをそんなことを、と一笑に付すことができなかった。
悠舜がどんな過去をその背に負っているのか、黎深は知らない。ただ自由に動かすこともままならない足や、時折見せる辛そうな表情に、彼の過去をそっと推し量ることしかできないのだ。こればかりは真正面から問うたとしても決して答えることはないだろう。
それにしても、「いかなる恵みぞ」とは。
悠舜、お前は一体、何を背負っている?
「さあ、このままではあなたが冷えてしまいますね。もう中に入りましょうか」
その場に下りた沈黙を、はたまた先ほどの自分の言葉をごまかすかのように明るい声を出して、悠舜は踵を返した。凍えた足はなおさら素直に動かないのだろう、ぎこちなく一歩一歩を踏み出して。
それに続く様に彼の後を追って歩き始めた黎深は、背後で聞こえた音に足を止めた。悠舜は歩くことに精いっぱいで、背後の黎深の所作には気づかない。
ぽとりとおちた軽い音。振り返れば、庭院の椿が花びらを散らすことなく地に落ちていた。
春はもう、すぐそこまでやってきている。
いかなる恵みぞ かかる身をも
妙なる救いに 入れたもうとは


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