「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいったもので、あちこちで猛暑と騒がれた今年の夏もそろそろ終わりに近づいていた。
茹だるような暑さもようやく鳴りをひそめるようになり、ここ数日は、日陰に入れば涼をとれるようなさわやかな風が吹いている。
茶州へ帰還することを期に、一足先に戸部を去った浪燕青に続いて、つい昨日のことだが紅秀も臨時の役目を解かれた。先達て倒れた高天凱と碧遜史から、一両日中には職務に復帰するとの文が届いたからだ。
下官たちも次々に職場に戻ってきているし、彼ら二人が帰ってくればもう安心だろうとの戸部尚書及び侍郎の判断である。
孟夏の頃のように活気の戻ってきた施政室の様子に、景柚梨は目を細めた。
あのくるくるとよく働く少年の姿が見えなくなってしまったのは残念だが、李吏部侍郎の話では次の国試で正式に朝廷入りするということだ。それを思えば、もうこの冬が待ちどうしくなってしまう。
そんなことをぼんやりと考えているのが周りにばれてしまったのだろうか、ふと気付くと室内の官吏たちの視線が自分に集まっているのを、柚梨は感じた。
おや、と思って隣の机案を伺えば、高官吏とぴたりと視線が合う。書翰に書き付ける筆を止めて、どことなく困惑気味の様子だ。年を重ねたせいで灰色が交じり始めた眉が、ハの字に下がっている。
まさかあれこれ考えていたのがそのまま表情に出てしまっていたのかもしれない。意味もなくにやけていたのを見てしまったのなら、さぞかし不気味に思えただろうと想像し、取り繕うように微笑み返した。
すると、なぜだか高官吏はますます眉を寄せ、なにか言いたそうに口を開き、結局何もいわずにまた閉じてしまった。もともとあまり口数の多い方ではないが、このように言いたいことをためらう人ではないはずだった。
今度は柚梨のほうが不審に思って、声をかける。
「高官吏や碧官吏が戻ってきてくださって、大助かりですよ。しかし、お体のほうは大丈夫ですか? 見たところあまり窶れてはいないようなので安心しているのですが……まだ本調子でないようならば、あまり無理はなさらないように」
「け、景侍郎。あのですな……」
「はい?」
「――柚梨」
ようやく口を開く気になったのかと、小首を傾げ先を促せば、それよりも早くこの室で一番大きな机案から声がかかった。
見やれば、机案の主、黄尚書が不機嫌そうに――といってもそれを読み取れるのは柚梨くらいなのだが――こちらを見ている。
「少し世間話をしていただけですよ、仕事を滞らせたいわけではありませんから多めに見てください」
取り繕うような柚梨の言葉、しかしそれに対しても反応がない黄尚書に、さすがに顔をしかめる。
というか、さっきからこの室全体の雰囲気がおかしい。ようやく戸部の施政官の顔ぶれが揃ってきたというのに、どことなく活気がない。やはり皆、まだ本復していないのだろうか? それならばもっとしっかりと休息をとるべきではないか。
「皆さんどうしたんですか? 鳳珠も」
「……柚梨。お前――」
「らしくありませんよ、言いたいことは言ってくださらないと。宝物庫の見回りはもう済ませましたし、あとは……ああ、この間鴻臚寺に付き返した見積もりならば、もう少しマシなのが返って来ましたよ。ほら、ここに……」
書翰を渡そうと椅子から立ち上がって、柚梨は何かに躓いた。
いや、本人がそう感じただけで、実際には何かに躓いたように足がもつれ、そしてそのまま――倒れた。
「柚梨っ!」
何かひどく珍しいものを聞いたような気がする、と思ったのを最後に、柚梨の意識は急速に遠のいていった。
***
「まったく、『らしくない』のはお前だ、柚梨」
大勢のいる前で自分のことを「鳳珠」と呼んだのに気付いているのだろうか、この年上の部下は。
運び込んだ医務室の寝台の上、微かな寝息を立てて横たわる柚梨を見つめて、仮面の戸部尚書、黄鳳珠は溜息をついた。
自分より小柄なせいもあるだろうが、抱き上げた身体は恐ろしく軽くて、内心ぎくりとした。夏でも崩さない官服のせいで身体の線は見えないが、元々痩せている体がさらに細くなっているのを感じる。
今はおとなしく横になっているが、運び込んだ当初は無意識に口元を押さえて唸っていた。
盥を用意して背を擦ってやったのだが、吐いても出てくるのは胃液のみ。これでは食事も喉を通っていなかったのだろう。
彼のあまりの頑なさにこめかみが引きつるのを止められない。それを押さえつけようとそこに手を伸ばして、指先が仮面に阻まれる。
(私も相当動揺しているな……)
動揺を散らそうと、黄尚書はもう一度大きく溜息をついた。
いつもならば、本人の限界を見極め、そのギリギリの線を越えないように仕事を配分するのが彼の職務上の信条であったが、今年の夏はそれを守れずに限界量以上の仕事を割り振ってしまった自覚がある。
その分自分自身にも多くの仕事を課したつもりだったが、それがこの部下には裏目に出たらしい。上官がこれだけの仕事をこなしているのに自分がやらないわけにはいかないと、通常よりも多い仕事を、しかし完璧にこなしていた。
よく見知っている者でなければ――それこそ十年連れ添ってきた者でしか気付かないような変化ではあったが、日に日に頬が削げ、窶れていくのを目の当たりにしながらも、とても休んでいいと言えるような状況でもなく、心の中で心配することしかできなかった。それでとうとうこの始末だ。
朝出仕したときから、常よりも格段に悪い顔色と本人の自覚のなさにどうしたものかと思案していたのだが、執務は通常通りに此方の要求分をしっかりこなし、かと思えばいつもなら絶対に仕出かさない「些細な」間違いをして、挙句の果てに倒れた。
人手が元のように戻りつつあった戸部で、無理矢理休ませることもできたはずなのに、そして、放っておけばこうなることは分かっていたのに、止められなかった。これでは完全に監督者の職務怠慢である。
人知れず、仮面の裏側で落ち込む戸部尚書の顔を上げさせたのは、やはりというかなんというか、戸部侍郎であった。
「――鳳珠?」
「……目が覚めたか」
ひどく掠れた声で呼びかけられた鳳珠は慌てて茶器に手を伸ばし、茶ではなく白湯を入れて、寝台に身を起こした柚梨に差し出した。
手渡されたそれに礼を言ってから、柚梨はこくりと幼子のように白湯を嚥下する。年上のはずの彼の、その幼い仕種に気まずさを覚え、すかさず鳳珠は
「悪かった」
と謝った。しかし、柚梨にしてみれば一体何のことかわからない。首を傾げる様子に慌てて付け足す。
「その、……具合が悪いのに休めと言ってやれなかった」
「そんなこと。私の体調管理がなっていなかっただけじゃないですか。私は子供でもなし、あなたも私の親ではないわけですから、謝ってもらう理由なんてありませんよ」
寝台の宮に凭れ掛かりあまり大きくない声でゆっくりと喋るのを聞いていると、やはり具合の悪さが伝わってくる。
先ほどより顔色はずいぶんマシになったが、それでもまだ青白い。
そんな彼の様子を見て珍しく肩を落としている上司を、柚梨は未だぼんやりとしている視界に収めて、苦笑した。
「あなたのことですから、てっきり『体調管理がなってない!』と怒鳴られるかと思っていましたのに。それに、あなたの方が何倍もお疲れでしょう。私がこんなことになって、余計な気苦労をさせてしまいましたね」
「私が気功を会得しているのはお前も知っているだろう。上手く力を抜く方法は知っている」
「それならば私にもそれを教えてくださればいいものを。……ああ、冗談ですよ、そういう方面にはとんと疎いんです、私は」
ふう、と息をついて、柚梨は眉間を揉んだ。どうにも、視界がぶれて落ち着かない。
「すみません鳳珠。もう少し寝かせていただいてよろしいですか? なるべく早く戻りますので、あなたは職場に戻ってください」
「急がずとも良い。本復するまでしっかりと休め」
茶碗を取り上げ、再び横になろうとするのを手伝いながら鳳珠が言うのに、柚梨は力なく笑いながら答えた。
「そりゃあ急ぎますよ、なにしろ仮面越しにあなたの機嫌を察してあげられるのは私くらいのものですからね」
彼の瞼に手を乗せることでいつもより饒舌な部下を黙らせ、汗で湿った額に張り付いた後れ毛をかきあげてやる。
すぐに穏やかな寝息が聞こえてきたことに安心し、そのまま、自分のそれよりも柔らかくほんの少し癖のある髪に指を通した。
(まったく、敵わんな……。私にこんなことをさせたいと思わせるのはお前と百合姫くらいだ――)
――と、そこまで無意識に考えて、愕然とした。
柚梨と女性を同列に並べるだなんて。とうとう自分の頭も暑気にやられたか、と理不尽な思考を追い払うように頭を一つ振って、鳳珠は室を去っていった。
寝台の上で、柚梨が微かに微笑を浮かべているのを知らないままに――


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