その日の昼間は、南東よりの風が強く吹いてざわざわと落ち着かない天気だったのだが、日が暮れると同時に風はぴたりと止み、穏やかな夕となった。
そんな薄闇の中、外朝の渡り廊下をゆるゆると歩く人影が二つ。戸部の尚書と侍郎である。
「一体誰だ、この忙しい時期に宴会をするなんて言いだしたのは」
「見当が付いているんなら聞かないでくださいよ」
はいはい、と宥めるように言いながら柚梨は手荷物を抱えなおした。厨に頼んでおいた酒の肴である。料理長が、旬だからと包んでくれたふきのとうの天ぷらの匂いが、微かに鼻先までとんでくる。
文句を言いながらも「行かない」とは言わないのだから、この人も結局はお祭り好きだ。評された本人が聞けば心外だと怒りかねないことを、彼の隣を歩きながら柚梨は心中でこっそりと思った。まったくかわいい性格だ。
と、そんなことばかり考えていたら、ふと微笑んでしまっていたらしい。鳳珠が隣でこちらをジト目で睨んでくる。こほんと咳払いしてごまかせば、今回はごまかされてくれる気になったらしい。鳳珠は話題を元に戻した。
「どうせ飛翔に決まってる。あいつ、ちゃんと仕事をしているのだろうな」
「いいじゃないですか、たまには。丁度桃が見ごろだというから、《観桜の宴》ならず《観桃の宴》といったところですね。風流じゃないですか」
そういうわけで、鳳珠と柚梨は工部の執務室近くにある中庭まで足を運んでいる途中であった。
「宴が始まったらその悪趣味な仮面は外すんでしょうね、鳳珠」
「工部と吏部の侍郎も参加するのだろう? 無茶を言うな」
鳳珠が憮然と言い放つと、そうですか、それは残念、とあまり残念そうでない口調で柚梨が返す。なんだか浮かれてるな、と仮面越しに柚梨の横顔を覗いて思うのは、けして気のせいではなさそうだ。放っておけば鼻歌でも歌いだしそうな年上の部下に、何とはなしに苛々する。
ほら、今だってまた。
「あ、月が」
突然立ち止まった柚梨が欄干の向こう、屋根の上に顔を出した月を指して微笑んでいる。気付かずに進んでしまっていた鳳珠との間に、数歩の距離ができた。
「今日は満月だったんですね。あんなに大きな月、久しぶりに見ました」
言われて見上げれば、昇りたての月が、どこかのほほんと屋根に乗っかっている。中空に凛と浮かぶ冬の月と違って、朧な雲を纏ってどこか暖かい色をしているように見えた。数日前までの、冷たい空気を刺すような冴え冴えとした面影も見当たらず、ぼんやりと円く。
「もうすっかり春ですね」
同じようなことを思ったのか、柚梨が呟いた。鳳珠は昊を見上げたままの横顔へと視線を移す。少し上向いて目を細める表情が、月に負けず劣らず、やわらかくきれいで。
また、苛、と心が揺れる。
「……そんなに月が好きか」
「? 何か言いましたか?」
「なんでもない。――ほら、遅れる」
踵を返して早足で歩き始めたのを、ぱたぱたと小走りで追いつこうとする足音が後ろから聞こえる。
どうにも落ち着かなくて、追いついた彼から無理やり包みを奪い取ってみる。小さな驚きと礼を言うやさしい声に、ほんの少し心が穏やかになった。
春の月は好きだったはずだけれど、今日は僅かに憎らしい。
まるでこちらを見下ろしているかのような円い月が、だんだんと高く昇ってゆく。


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