ひと呼吸

6,181 文字

13

 駆け出しも駆け出し、国試に合格して一年にも満たない新米官吏にとって、公休日が七日に一度きちんととれることなどほとんどないといっていい。十四日に一度、二十一日に一度取れれば万々歳、一月働きっぱなしなどざらである。
 そうしてようやく取れた貴重な休みをなぜこんなことに費やさなければならないんだ、という酷く根源的な問いかけを、鳳珠はもう十回ほど飲み込んでいた。代わりに口から漏れていくのは重たい溜息のみ。
 その度に、左を歩く同期には心配そうな顔をされ、右を歩く同期――とは認めたくない同期には、
「いい加減その鬱陶しい溜息をどうにかしたまえ、君!」
 偉そうな態度で命令される。諸悪の根源が何を言う、と口よりも先にむしろ手が出そうになるのを、毎度遠慮がちに引かれる左袖に諦めた。
「堪えてくださいね、鳳珠。彼も悪気はないんですよ」
「……っ、お前にそう言われたら堪えるしかないだろう」
 右側には聞こえぬように小声で、しかし雑踏にはまぎれないような音量で話し合う二人を知ってか知らないでか――知らないに決まっていると鳳珠は思う――、気付けば紅黎深は数軒先の店に小走りで向かっていた。
「早くしろっ、悠舜、鳳珠!」
「あいつめ……」
 振り返って叫ぶ、まるでやんちゃ小僧のような姿に、鳳珠は思わず顔を手で覆った。一体何歳だあいつは。
「まあまあ。でも本当に早くしないと、黎深は次の店に行ってしまいそうですよ」
 そう言って彼を急かし自分も急ごうとする悠舜を、鳳珠は手を振ることで止めた。
「あいつは勝手にさせておけばいいんだ。無理やり連れてきたのはあいつなんだから」
「でも……」
 市場に買い物に来た客としては、確かに彼らの足取りはとてもゆっくりとしたものだった。杖を操る悠舜の負担にならないように、彼の歩調に合わせているからだ。
 早足の買い物客には迷惑そうな顔をされるも、実際に文句を言われることは今のところない。振り向いたが最後、鳳珠の美貌に魂を抜かれるのがオチである。

 買い物客の喧騒に呼込みの掛け声。全体的に騒がしい雰囲気が満ちたこの場所に、彼ら三人の取り合わせというのは非常に珍しかった。
 今日立っているのは月に一度の月初めの市で、各州の名産品や時には国外からも珍しい品が紛れる市である。
 悠舜はその足のせいであまり人ごみに紛れることを良しとしないし、鳳珠も曲がりなりにも黄家の者だから、大概の場合商人の方から邸に品を店にやってくる。紅家当主たる黎深にいたっては言うべくもない。
 それなのに彼らがこのような場所にやってくることになったというのも、ひとえにその紅家当主のせいであった。

「買い物に付き合え、だと?」
 お前はどこの婦女子だとからかおうとして、鳳珠はそれができなかった。
 彼の瞳が、常にないほど輝いていたからである。
 外朝の廊下で突然捕まえられたかと思えば、これだ。はっきり言って気色悪かった。普段あれだけやる気のなさそうにしているこの男が、何を前にしてこれほど張り切っているのか。
 関わっても良いことは起きまいと知らぬ振りをして踵を返したかったのだが、尋ねずとも彼のほうから詳細を話し出したのでそうわけにもいかなくなった。
「君も見習い期間中に世話になっただろう、邵可兄上に!」
「……ああ、そういえば貴様の兄君だったか」
 新進士として外朝のあらゆる部署から雑用を押しつけられて宮城の中を走り回ったのはまだ記憶に新しい。右へ左へと奔走する日々の中、わずかな休息を府庫の主に与えられたことも。そっといたわりの言葉をかけてくれたり、軽食を用意してくれたりと、そのささやかな優しさにずいぶんと救われたものだ。あの頃はただ己のことに精いっぱいで、彼とほとんど会話らしきものをすることはできなかったが、まさかあの人がこの男の兄だとは。事実を知った時は世の不思議を改めて思い知ったものだ。
「……それで、その兄君がどうかしたか?」
「だから! 兄上になにかお礼をするべきだろう!」
「……」
 黎深と、お礼。世界でもっとも縁遠そうな二つを並べられて、鳳珠はいろんなことを言いたくなった。言いたくなったが……とりあえず間違ってはいないのでなにも言わないことにした。
「次の公休日は絶対に休みをとれ! 悠舜にも言っておけよ!」
 ぴしゃりと言いたいことだけを言い放って、黎深はさっさと回廊の角を曲がって言ってしまった。残された鳳珠は、言っていることは無茶苦茶だが一応筋はかなっている黎深の発言になんとも微妙そうな顔をしたまましばらくその場を動けなかった。

 広げられた幌の下、あれこれと物色する友人の姿を目端に捕えて、悠舜は楽しそうに笑った。
「まあ、こういうこともあまりあることじゃありませんし、楽しいから良いじゃないですか」
「私たちを連れてきた意味などほとんどなさそうだがな」
 それは、と悠舜は苦笑した。先ほどから自分だけ勝手に動き回って、こちらのことなど気にかけている様子もない。
「ずいぶん歩いたが、休まなくて大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。心配して下さってありがとう。でも、もう少ししたら休憩にしてもらえると嬉しいですけれど」
 いいですか?と幾分ためらいがちに言うのに、そうだな、となるべくさりげない調子で同意する。気を使われるのが苦手な彼は、あまり心配しすぎると却って縮こまってしまう。
 見習い期間中、周りにずいぶんと心配をかけたのを自覚したのか、それでも最近悠舜は少しだけ素直になった。
 どこまでも黙って耐えるのではなく、周りを頼ることを覚えた。それも、ほんの少しのことではあったが。
「おい黎深、そろそろ昼時だからどこかで休まないか」
 地面に広げられた筵の上、木彫りの人形の中からまた人形が出てくる、という変わった品を興味津々といった様子でつついている黎深に声をかける。少なくともその品ではお礼にならない、とは言うべきか言わぬべきか。鳳珠がしばし逡巡しているのをよそに、黎深は「そうだな」と顔を上げて立ち上がりかけ――そしてそのまま固まった。
「どうした?」
 じっと自分を凝視する同僚をいぶかしむが、すぐにその視線が己ではなくその後ろに向けられていることに気がつく。何かあっただろうかと後ろを振り向こうとして、鳳珠は突如引かれた腕に重心を崩した。
「……っ、来いッ!」
「は? ――って、おい!」
 慌てて体制を持ち直して、ぐいぐいと腕を引っ張る黎深に文句を言ってやろうと口を開く。そ
れなりの運動神経を持っていなければ、天下の公道で見事にすっ転ぶところだったのだ。普段は如何にも名家の当主然とした、下々を見下すような悠然とした振る舞いしかしないくせに、こんな風に突然馬鹿力を発揮したりすることが、この男にはある。
 結局文句を言う暇もなく強引に建物の影に引っ張られたので悠舜を置いてきてしまった。というか、故意に置いてきたのだろう。同じ調子で悠舜を引っ張ったら必ず転倒していただろうから、黎深にもそれくらいの判断はできたようだ。
 未だ掴まれたままの手を乱暴に振り払って黎深に向きなおる。
「突然何をする! 何が何だかわからんが一言いえば――」
「っ、黙れ! 見つかってしまうだろうが!」
 誰に、と問う間もなく手で口をふさがれる。さっきの場所から随分離れた。そんなに気を使わなくてもあの場に会話は届くはずもないのだが、この男はそういうところには鈍いらしい。慎重な顔をして手をどけると、今度は建物の蔭から顔を出しそおっと通りを覗きはじめる。奇怪な行動をする黎深に、しかたなく鳳珠も倣った。
 道端には、突然姿の見えなくなった友人二人を不思議に思って、きょろきょろと辺りを見回している悠舜の姿がある。いわんこっちゃないと頭を抱えようとして、ふと黎深の呟きに手を止めた。
「……やっぱり邵可兄上だ」
 彼の視線の先を追う。雑踏にまぎれて身動きができなくなっている悠舜の、その向こう。黒髪を後ろで一つに結わえた、穏やかな顔つきの男性が通りを歩いている。
「……邵可様がおられることはわかった。だが、隠れんでもいいだろう」
「だ、だめだ! 兄上に贈るものを探しているというのに、本人にそれが知れてしまったら意味がないではないか!」
「貴様の理屈はよくわからんよ……」
 なおも小声で会話することを強制する視線に妥協して、彼に合わせてこそこそと会話する。こんな様はあまり人に見られたくないものだが、鳳珠は敢えて今はそれについて考えることはやめた。
 それより、と、しきりに通りの様子を窺う黎深を眺めながら思う。今日の話を持ち出された時も思ったが、この男、兄にだけは随分態度が違う。傍若無人、慇懃無礼、天上天下唯我独尊を地でいく黎深だが、兄を相手にすると途端に人間らしい、ただの兄好きの一弟に成り変わる。こちらも真人間としては少々行き過ぎているような気がするが、少なくともあれよりは良心的だ。
「ふむ……」
 もう少し両者の差異を埋めて、適応範囲を兄一人から広げてくれれば、こちらとしても助かるのだが。先ほどから兄一人しか目に入っていない彼の様子ではそれも夢のまた夢といったところか。
 さて、いつまでもこうしているわけにもいかない。贈り物のことを知られたくないからといって、他にも方法はある。それを提言してやろうとしたその矢先、黎深が「ああっ」と小さく叫び声をあげた。

 突如一人きりで雑踏に放り出された悠舜は、まさしく途方に暮れていた。
(これはまさか、置いていかれたのでしょうかねぇ……)
 黎深ひとりならそれもあり得るとして、鳳珠がついていながらそういうことにはならなさそうなものだが。ぐるりと周囲を見回しても、あたりは人・人・人。別段背が高いわけでもない悠舜には彼らの姿を目の端にも捉えることができなかった。
(さて、どうしましょうか)
 最悪一人で帰ることになるかもしれないな、とは思いつつも、まるで見知らぬ土地でなし、悠舜もさほど困ってはいなかった。せっかくの休みがこれで終わってしまうのは残念だとは思うが。
 しかし、こうして雑踏のど真ん中に立ち尽くしているわけにもいかない。行き交う人は通りを西へ東へと忙しなく、今だって横切る人が迷惑そうに悠舜をよけてゆく。とりあえず道の端のほうへ移動しようと杖をついたその時、実に間が悪いことだが、通りを行く誰かが悠舜の右肩に強くぶつかった。
 自明のことだが、足の悪い悠舜ではろくに踏ん張ることもできない。ああ、倒れるな、とどこか他人事のように思いながら、精一杯杖に力を込めてみるもあまり効果はなさそうだ。来るべき衝撃に備えながら、悠舜は反射的に目を閉じた。
 どさり。
 予想外に柔い衝撃に、閉じていた目をゆっくりと開くと、視界に映りこんだのは臙脂の衣だった。地面ではなく、誰かの腕の中。それを認識して顔を上げると、上からやわらかな声が降ってくる。
「大丈夫ですか、悠舜殿」
「……紅、邵可様?」

 彼に人通りの邪魔にならない道の端まで案内してもらい、悠舜はようやく一息ついた心地で隣に立つ人を見た。黎深の兄、府庫の管理人、そして本日の外出の理由でもある人。
「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
「先ほどはありがとうございました。助かりました」
「いいえ、お怪我がないようで何より」
 にこにこと春の日差しのような笑みで話しかけてくれるものだから、悠舜もやはり同じように返してしまって、なんだかほのぼのとした空気がその場だけに流れた。
 この人が黎深の兄だとは俄には信じられないが、自分以外の人間はみんなペンペン草かなにかだと思っている節のある黎深が、唯一慕っている(という域を超えている気もするが)様子を見てしまうと、ああ本当に兄弟なのだ、と納得するしかない。
「今日は何かお探し物でも?」
「……ええ、まあ」
 話の流れで問われて、悠舜は結局曖昧に濁すことにした。ここで種明かしをしてしまって、後々黎深になじられる羽目になるのは御免こうむりたい。
「それにしても悠舜殿、今日は特に人が多いですし、お一人で出歩くのは少し危ないのでは?」
「ついさっきまでは連れがいたのですが、……私がぼんやりしている隙にどうやら逸れてしまったらしくて。そのうち会えると思いますのでお気遣い無く」
「そうですか」
 納得の相槌とともに邵可がにこりと微笑んだ。しかし、心なしかその笑みがさっきより冷たいような気がするのは――いいえ、気のせいですね。心中で結論付けて悠舜も笑んだ。
 次の辻まで送りましょうか、との邵可の申し出を固辞して、雑踏にまぎれてゆく後姿を見送る。黎深が兄一筋になる気持ちもわからなくはないな、とは思うものの、あれで邵可は重たくないのだろうかと考える。
(やはりすごい方ですね、邵可様……)
 結局結論として行きつくのはそこだった。


「――なんてこともありましたね」
 相変わらず吏部尚書の仕事をすっぽかして悠舜の執務室に遊びに来ていた黎深の茶の相手をしながら、悠舜はそんな思い出話を広げ
ていた。今日は室に入ってきたときからずっと「兄上が」ばかり言っている黎深の様子に、古い記憶が刺激されたらしい。
 向かいで茶をすする黎深といえば、まるで渋い茶をいやいや飲んでいるかのような顔をしている。
「ずいぶん昔の話を言うんだな」
「ええ、あれは印象的でしたから。あの後あなたと鳳珠がどこからともなく現れたかと思ったら、あなたは私に掴みかからんばかりの勢いで――」
 そう、元はといえば彼らが姿を隠したのがいけないというのに、「兄上に抱きかかえられるなんて百年、いや千年早い!」とすさまじい剣幕で怒鳴りつけられた。いつまでも喚く黎深を、さてどうやって宥めたのだったか。
「あなたは本当に、邵可様のこととなるとまるで態度が変わりますね」
「それの何が悪い。兄上とそれ以外で態度が変わるのは当たり前だ」
 くすくすと思い出し笑いを続ける悠舜を、不機嫌そうな眼で見下ろして黎深が言い放つ。
 胸を張って言いきる黎深に、悠舜はふと笑いを引っ込めた。ゆるり、と羽扇を撫でて黎深を見つめる。ちょっとした思いつきだが、試してみようか。
「変なことを訊いてもいいですか?」
「……なんだ」
「たとえ話ですが。邵可様と私が断崖絶壁に体を放り出されて、今にも落ちそうになっています。どちらか一人しか助けられないとしたら、あなたはどちらを助けますか?」
「……ふん。兄上に決まっているだろう」
「そうですか」
 黎深は悠舜の目をみてきっぱりと言い放った。先ほど兄とそれ以外についての態度の差を何が悪いと言い切った、傲慢そうな態度そのままで。
 それを聞いて悠舜はにっこりと笑った。

 ひと呼吸。ほんのひと呼吸分だけ、答えるまでに時間がかかって。
 あの《兄大好き男》が即答しなかったことに、少しだけ自惚れることは許されるだろうか。彼が逡巡したのだと、勘違いしてしまってもいいのだろうか。
 その呼吸の分だけ愛されているという事実を思いのほか喜んでいる自分を見つけてしまったら、なんだか口元が緩んでしまうのを止められない。まさかそんな姿を晒すわけにもいかず、悠舜は顔を羽扇でふわりと覆い隠した。
 黎深が怪訝そうな顔で此方を覗く。当分、羽扇を手放すことはできそうになかった。

関連小説

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です