ワードパレット:Winter

9,034 文字

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No.9 寒昴(孫兵)

冬の夜空/灯り/君のため


 夜ごと、孫兵は飼育小屋への道を辿る。今宵は一層冷え込んで、吐く先から息が白く濁った。もう、いつ雪が降ってもおかしくはない季節だ。孫兵は簔の前をかき合わせ、藁ぐつの中で指を縮めた。そうしてもなお、しんしんと寒さが身に染みる。
 いつもならまだ薄明かりのある時間に向かうのだが、今日は実技の試験が長引いたせいですっかり日が落ちてしまった。忍たま長屋を出た頃はあちこちから洩れる灯りで明るかったのが、今はもう藪に隠れて見えない。部屋を出る際に行灯に移した火種が揺れる。風がなくとも、この凍えた空気のせいで消えてしまうのではないかと思われる小さな火に、孫兵は己の姿を重ねた。急にもの寂しくなって、歩む足が次第に早くなる。
 空に月は無く、一面に星が散らばっていた。月明かりがないことが心細い。上級生であればこの星明かりでも夜目が利くのだろうかと、気を紛らわせながらひたすらに暗闇の中の道を歩き続けていると、ようやく飼育小屋が目に入った。孫兵はほっと一つ息をつく。といっても、小屋の中に用はない。小屋の近くの水楢の木の根元。野ウサギが掘った穴の中。そこが孫兵の目当てだった。その穴に、ジュンコが眠っているのだ。
「ジュンコ……」
 暗闇に行灯を掲げる。目印が無くとも、その穴の場所を間違えることはない。こんもりと盛った土は、孫兵がかけたものだった。本当はジュンコが眠る穴も孫兵が用意してやりたかったのだけれど、冬の初めに勝手に散歩に出かけたジュンコは、孫兵が見つけたときにはもうここでとぐろを巻いていた。おやすみも言えなかったことを、孫兵はあの冬の日からずっと後悔している。
「君のために、ぼくは何もしてやれない」
 呟いて、土の上をそっと撫でる。昼間の委員会の時にも確かめたそこが荒らされていないことを確かめる。昼に夜に、こうして土の下で眠る彼女のことを思って撫でるのが、孫兵の冬の日課だった。直接触れてやれないからこそ、慈しむように、優しく、何度も、孫兵は土の上を撫でた。
 そうしていると、あんなに身を震わせた寒さも寂しさも感じなくなって、代わりに穏やかな眠気に包まれる。ここでジュンコと一緒に眠れたなら、どんなに幸せだろうか。いつも夕刻にここを訪れるときには考えもしないことであった。闇の濃さが孫兵にうつろな妄想を抱かせる。同じようにとぐろを巻いて、暗く狭い穴で眠れたら。
 水楢の木に背を預けて、ずるずるとその場に座り込む。木肌も根も、冷えた空気よりほのかに暖かい。そうして見上げた空に星が瞬いた。目を閉じる。月が——見えないはずの月が、瞼の裏に浮かんだ。
 と、同時。
 とん、とかすかな音を立てて、その人が、地に降り立った。
 目を開ける前から、それが誰であるのか、孫兵にはなぜか分かった気がした。
「孫兵」
「竹谷先輩……」
 名を呼ばれてうすらと目を開けると、生物委員会委員長代理の困ったような、怒ったような顔が、星空を背にして孫兵を見下ろしていた。月、と思ったのは、孫兵が地面に置きっぱなしにした行灯の光だったのかもしれない。それで顔を照らして外傷がないことを確かめた後、彼は有無を言わせず孫兵の腕を取った。
「帰るぞ」
「……」
「おまえはここで寝ちゃだめだろ」
「……はい」
 いつから、どうして。聞きたいことは多々あったが、どれもうまく言葉にならない。ただ、この人がいる限り、ジュンコの隣で眠る日は来ないのだろう、とそれだけは分かった。それが残念であるのか、はたまたその逆なのかも分からない。
 土を撫でて汚れた手を、かの人はためらいなく握った。手を引かれて、帰る道を示される。
 孫兵は背後を振り返った。
「おやすみ、ジュンコ」
 一緒に眠れないのだとしても、何もしてやれないのだとしても、せめて冬の初めに言えなかった言葉を伝えるために。そのために孫兵は、夜ごとこの道を通う。
 八左ヱ門は、孫兵が歩き出すのを黙って待っている。彼の持つ灯りが、星空よりも明るく、孫兵の背を照らしていた。

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