腕時計

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 世間の禁煙の波はここ帝國図書館にも例外なく押し寄せるものらしく、館内で喫煙できる場所はじつに限られたものだ。しかし煙とは切っても切り離せない文豪の性、転生者の数が増えてくるとともに図書館側の幾ばくかの譲歩——温情ともいう——のおかげで喫煙所の数は微々たるペースではあるが増加している。
 潜書室のある階の非常階段も最近喫煙が解禁された場所の一つで、まだ情報が行き渡っていないせいか利用者が少ないのが嬉しいところだ。潜書上がりにちょっと一服するのには打ってつけの場所だった。いずれすぐに、他の喫煙所と同様人でごった返すようになるのだろうが、今日のところは菊池一人しか見当たらない、——と思ったのだが。
「おっ、先客がいたか」
 防火のために重く作られている扉を押し開いて、外へと出てきたのは国木田だった。菊池は吸いさしの煙草を一度唇から離しそれに答える。
「なんだ、珍しい顔だな」
「たまにはな」
 たまに、と彼は言うが、たまにどころか菊池は転生してこのかた、喫煙所で彼を見たことが一度も無かった。ヘビースモーカーを自認する菊池であるから、たまたまタイミングが合わなかったというより本当に滅多に吸わないのだろう。その証拠に、
「なんだ、その手」
「だからたまにしか吸わないんだって」
「もらい煙草専門かよ……」
 口ではなんだかんだと言いつつ、差し出された手に一本乗せてやり、どうせ持っていないだろうからとライターも取り出して渡す。
「これ、どうやって火を付けるんだ?」
「おいおい、ライターの使い方も知らないのか」
「俺が生きてた頃はなかったからなあ」
「……手のかかるセンパイだな」
 見た目の若々しさで忘れそうになるが、そういえば彼は菊池より一回りも年上なのだった。おまけに早くに死んだものだから、たまにこういう世代的文化ギャップが生じる。当然世話を焼いてくれるだろうという態度でいる国木田相手に、基本的に年長者(というと違和感があるが)を重んじる菊池が逆らえるはずもなく、自分の煙草を口にくわえて手を空けると火をともしたライターを彼の口元へ翳してやった。
 素直に顔を寄せるかに見えた国木田は、しかし途中で何かに気を取られ動きを止める。なんだ、と声を掛けるより先に、彼は煙草を口から離してしまった。視線の先は、菊池の右手首である。
「その腕時計。動いてないんだな」
 思わず左手で覆い隠してしまって、その悪手を知った。
「そっちは動いてる。なんでだ?」
「……」
「壊れてるのか?」
 菊池は、国木田の表情を注意深く伺った。彼の目が、ほんの少しであってもなにがしかの感情の色を浮かべていたのならば、菊池はどうにでもごまかしただろう。自分にとってそれは容易に人に触れさせたくはない、ある種弱点のようなものだったから。
 しかし、彼の瞳は透明だった。好奇心でもなく、心配や気遣いでもなく、なんの悪感情でも、好感情でもない、それよりかは菊池を通してどこか別の場所を見ているような、別の誰かに問いかけているような気配さえした。
 溜息一つと引き換えに菊池は与えるべき答えを喉奥から引きずり出す。
「壊れているのかもしれない。……止まっているだけなのかもしれない」
 灰皿に一度灰を落とした後、肺一杯を紫煙で満たす。
 菊池の両腕に一つずつ嵌まっている腕時計は、どちらも生前に使っていた覚ような機械式の舶来ものだった。現代のように電池の交換は必要ない代わり、定期的にゼンマイを巻いてやらねば二三日で止まってしまう。
 転生したその時から何故か身につけていた二つの腕時計は、片方が正常に動いていたのに対し、もう一つは初めから止まっていた。止まっているなら動かせば良いと、そう思ったのだがそれができないのには理由がある。
「竜頭がないんだ。それじゃゼンマイがまけないだろう」
 だが、そんなのは所詮言い訳に過ぎない。いくらか趣味的かもしれないが、現代でも機械式時計は普及している。ちょっと時計屋に行って修理を頼めば良いだけの話だ。壊れているのか、部品が足りないだけなのか、専門家に任せればすぐに明らかになるだろう。それなのにそうしないのは、菊池自身まだ答えが出せていないからだった。止まった時計を持って転生した、その理由は一体なんなのだろう、と。
 国木田は相槌も打たずに黙って聞いていた。紙巻き煙草をてずさびに指でくるくると回している。疲れているのかもしれない、とこのときようやく菊池は気がついた。今日は有碍書への潜書は予定されていなかったはずだ。潜書室から一番近いこの喫煙所は、潜書上がりの精神を落ち着かせるのにちょうど良いと、考えたばかりじゃないか。さっきまで有魂書に潜書していたのは、菊池だけではなかったのだ。
「——あんたは知らないかもしれないが、普通腕時計ってのは利き腕とは逆につけるんだ」
 突然に話題を変えると、国木田はまるでたった今目が覚めたかのようにはっと顔を上げた。
「あ、ああ……。利き手につけてたら字が書きづらそうだもんな」
「そうとも。だから本当は邪魔で仕方が無いんだ、物書きの大事な大事な右腕に動きもしない時計を付けてるのは。こんなのはさっさと取っちまいてぇよ」
「……だがアンタはそうしないのか」
「まだしばらくは、な」
「しばらく?」
 その先を、告げようかどうか少し迷った。あんまりにも個人的で、不確定で、無根拠で、未確認で、——多分に願望を含んでいる。菊池の好むところの賭け事とするにも分が悪すぎて、そんなのは本当は、賭けにすらなりやしないのだけれど。
「こいつの竜頭を持ってるやつがいるんじゃないかと思って。……そいつはまだここには来ていないけれど、必ず来るはずだ。そいつに確認してからでも外すのは遅くない。それまでこの右腕は、そいつに貸しているつもりでいる」
 思い切って話してしまうと、気が楽になった。こんな話は誰にもしたことがない。さして親密でない相手なのが、かえって良かったのかもしれない。吉川やら、横光やら、下手な相手にはこんなこと女々しくて言えやしない。
 左手の指で、文字盤の上を一撫でする。針は依然止まったままで、突然動き出すようなこともない。時を計らない、役立たずの時計。果たしてそれに意味があるならば、つまりそれは菊池の一部分が未だ止まったままであると、そういうことなのだろう。動かないが、それは確かに自分を構成する一部分として大事な場所を占めている。
 さあ、この話は終わりだ。そういうつもりで、改めて火を差し出した。まだ心ここにあらずの顔をしている国木田に、余計な言葉は必要ないだろう。菊池だって物書きの端くれ、先駆者の経歴も人間関係も一通り把握している。
 彼の待ち人もきっと、動かない時計を持っている。そのことに彼は気付いているだろうか。
 ——あんたがちゃんと、ゼンマイをまいてやれよ。
 まさた心の声が漏れ出たわけではないだろうが、火の付いた煙草をひとふかしして、国木田は盛大に咽せていた。


(第2回花独ワンドロお題使用)

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