お忘れ物

2,668 文字

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 夜分、風の音に紛れてかすかに物音がする。
 夜の十時を過ぎて、来客には非常識な時間である。妻は体調がよくないと言って既に床についていた。居間でブランデーを舐めながら本を読んでいた彼は、今夜は風が強いからきっとそのせいに違いないと思ったが、二度、三度とそれが繰り返すに至ってはようやくソファから腰を上げた。
 廊下の先、玄関戸に嵌まった小さな曇りガラスの向こうは暗闇である。来客があれば入り口の人感センサー付きのライトが点るはずだから、これはおかしい。しかし彼の見ている前でまさにその時、確かにこんこん、と二度、戸が叩かれる音がする。どうしてインターホンを使わないのか、それも不自然だったが、空き巣か何かが下調べに来たのだったら無視するのも恐ろしい。彼はおそるおそる三和土に降りていって、チェーンロックがしっかり掛かっていることを確かめてから、サムターン錠を静かに回して、ことさらゆっくり、扉を開けた。
「どなたですか」
「ごめんください、夜分すみません」
 彼が戸を開けた途端、玄関ポーチは明るくなった。センサーがようやく反応したものらしかった。暖色の灯りの下で、目に入ったのは白足袋に草履履きの足元である。和装の男だった。夜闇と同じ色をした着物に海老茶の羽織、首元には格子模様の襟巻きを巻いて、その上に、色白というのも生易しい、生気の無い色をした小さな頭が乗っている。若いな、と彼は思った。
 もの静かで丁寧な口調は彼の緊張を解し不審を取り除くには十分だったが、しかしこのご時世、用心はしてしすぎるということはない。彼の家はけして豪邸ではなかったが、妻と二人で暮らすには十分すぎる大きさだった。また今となっては昔のことだが、それでも彼の名は世間にいくらか知れている。金を持っていると勘違いした悪党がいてもおかしくはないと、彼はチェーンを取ることはせずに、細く空いた隙間からもう一度問い質すことにした。
「どのようなご用件ですか」
「いいえ、たいした用事ではありません。これを」
 和装の男はそう言って、ドアの隙間からなにかを差し入れてくる。一瞬ナイフでも突きつけられたのかと思ったが、しかし、よくよくみればそれはなにかの小包である。風呂敷に包まれた薄い箱状それを彼は反射的に受け取っていた。持ってみれば、それは彼の手によく馴染む形をしていた。
「お忘れ物です」
「……はて、記憶に無いが」
「それは、お忘れでしょうから」
 男はどこか抑揚の欠けた、しかし不思議と耳に通るような声で、埒のあかぬ物言いをする。どこかで聞いた声のような気がして、数瞬、彼は男の顔をまじまじと見た。長めの前髪の向こうに隠された瞳はまるで感情のうかがえぬ色をしながらも、目を合わせた彼のことをじっと見つめ返してくる。まっすぐな視線をそれ以上受け止めることができず、彼は視線を落とさざるをえなかった。
「一体、なんでしょうな」
 彼は咳払いを一つして、濃紫の風呂敷を剥がしてみることにした。実は薄々察していたとおり、それは一冊の本であった。装丁のしっかりした四六判の単行本で、表紙には手触りの良い厚手の和紙が使われている。日本画風の筆致で描かれた見返り美人が真ん中に立っていて、右肩に筆文字で題名が書かれていた。
 どこかで聞いたような題名だったが、すぐには思い出せない。しかし、自分にとって何かとても、とても大事な本だった気がして、彼は誘われるようにそれを開いた。目次。章題。書き出し。見る間に記憶が蘇る。はっとして、彼は本を閉じ、もう一度表紙をよく確かめた。
「そんな馬鹿な……」
 そこには、彼自身の筆名が、はっきりと印刷されていた。
 彼は、作家であった。
 今ではもう小説のために筆を執ることは少なくなって、もっぱら講演に呼ばれたり、雑誌のコラムに短い文を寄せる程度になったが、若い頃に大きな出版社の奨励賞を獲って以来細々と世に作品を発表し続けてきた。派手に名前が売れることは無かったが、着実に部数を上げる中堅作家として、彼は出版社から重宝される存在だった。
 それも今はもう昔。「文学書の侵蝕」という俄には信じがたい怪奇現象が明らかになって、出版業界は明らかに勢いを失った。本が侵蝕され切ってしまえば本それ自体が失われるどころか、その本に関わる記憶そのものが人から消え失せるという。政府は対策に乗り出しているというが、一度侵蝕が始まってしまえば手も足も出ず失われていくのを見ることしかできない。やがて、失ったということすら忘れてしまう。彼の作家仲間もそれで何人が筆を折ったか知れない。生み出したものを端から奪われる恐怖を感じながら書き続けられるほど、人間は、作家という生き物は、強くは無いのだ。
 彼もまた、何度も書くのを止めようと思った。手元の本が真っ黒に変わり果てているのを見て、自らそれを火にくべたことすらあった。それでも、今までずっと作家と名乗り続けたのは、あの日、あの出来事があったからに違いない。
 奨励賞の授賞式、来賓に呼ばれた世界的な大作家は、受賞に舞い上がって分も弁えずに飛び出した駆け出しの作家を、笑いもせず、怒りもせず、ただじっと見つめて、たった一言。
 ——がんばりなさい。
 特別な言葉ではない。彼の本をその大作家が読んでくれたとも思わない。だが、その一言で、彼はがんばろうと思った。そうやって、ふんばって、書いてきた。
 どうして忘れていたのだろう。
 その時の本じゃあないか、これは。
「これを、どこで——」
 顔を上げると、扉は閉じている。
 慌ててチェーンを外し、外へとまろびでる。いつの間にか消えていた灯りが再び反応して、玄関先はぱっと明るくなった。しかしそこには人影一つ、ない。
 夜風は先ほどより強くなったようだった。落ち葉が音を立てて舞っている。その中を、踏み石を一つ二つ、庭へ向かって歩き出したが、きっとどこまで追いかけたとして、あの男を掴まえることはけしてできないように思われた。
「あなた、どうしました?」
 早寝したはずの妻が、カーディガンの前を押さえて玄関に出てきている。彼が手に持っていた本を渡すと彼女はぽかんとしたが、すぐに目を丸くして、愛おしそうにその本の表紙を撫でた。
「どうして忘れていたんでしょうねえ。あなたの、処女作なのに……」
 だんだんと記憶が鮮明になるにつれて、彼は先ほどの和装の男についても思い出すのだ。
「ああ、そうだ……あの声……あの目……川端先生……」

 その夜、一つの忘れ物はこうして、持ち主の手に返ったのである。

(終わり)

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