花緑青

3,087 文字

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 潜書のない日の、昼下がりのことである。暇をもてあましていた花袋は、そういえばと思い立って宿舎の自室を出て、ほんの二つ隣の部屋の戸をおざなりに二回叩いた。
「おおい、独歩。いるか」
 ある程度ルーチンで管理されているこの図書館の潜書の予定では、彼も同様に非番であると知ってはいたが、一所に落ち着くのが性分でない彼のことだ、どうせ外出でもしているだろうと返事は期待していない。勝手に入って用事だけ済ませて、置き手紙でも置いておけば済む。
「いるぜ」
 しかし意外にも返事があった。普通なら返事があってから扉を開くが、花袋はもうほとんど扉を開けてしまっていた。不作法には違いなかったが、今更花袋も独歩もそのくらいのことは気にしなかった。案の定、部屋の主はというと書き物机の前に座って、扉の方を振り返る素振りもない。
「こないだ言ってた本、持ってきてやったけど」
 と、手に持っていた洋書を二冊ばかり、掲げて見せる。いつもならここですぐにでも食いついてきそうなところ、独歩は机を向いたまま、うん、と言ったっきりさっぱり振り向かない。それほど彼が熱中しているのだとしたら、出直した方がいいかもしらん。しかし、もしや何か新しい小説でも書いているのだとしたら、興味がある。良心と好奇心の狭間で二秒ほど思案して、花袋は日頃の気安さで後者を取ることにした。狭い部屋のことなので、扉から五歩も進めばすぐである。彼の肩越しに机上を覗き込むようにすると、あにはからんや、きれいさっぱり片付いている。洋墨もペンも出ていないのに勝手にがっかりして、じゃあどうしたんだと今度は彼の顔を覗き込むことにする。
「なんだ? 本だったらその辺に置いといてくれ」
 迷惑そうな声が上がったが、相変わらず彼の瞳はこちらを見ようともしなかった。
 というのも、彼は両方の手をゆるく握ってそれぞれの目に押し当てて、ぐいぐいと力任せにこすっているからだった。
「おい、どうした」
「いやなに、なんか目に入ったから」
「だからって、ああ、ばか、こするなよ」
「ばかとはなんだ、言うに事欠いて」
 どうでもいいところに反応した独歩は、ようやく手を止めて、不機嫌そうに花袋を見上げた。かわいそうに、両目とも真っ赤に腫れていつもの涼しげな相貌が台無しだ。しかし、相変わらず目の中の異物感が気になるのか、彼はまた手をまぶたにやって、今にもこすりたそうにしているから、気が気ではない。
 花袋は、彼のこの容貌がことのほか好きだった。梅の花か、紅花かで染め出したような色の髪は遠目にもぱっと花が咲いたようで美しいが、それと同じくくらいに好きなのがとろりとした花緑青の瞳である。上質な釉薬をたっぷりと塗りつけて艶を出したような、あるいは空気が入らないようにとくに気を遣ってこねたトンボ玉のような、そういう工芸品に類する美しさがある。それがまた、すっと細筆で描いたような形のよい眉の下に象嵌されているのが、たまらなく好きだった。
 それを、彼自身とはいえこうもぐちゃぐちゃの涙まみれにされてしまっては、なんとも惜しい。もったいないとすら思う。
 だから、手の中の本を知らず知らずに机の上に放り出して、まず彼の両手をそれぞれに掴み、これ以上の悪さができないようにしたのは、これはもうある種の使命感がそうさせたと言ってよかった。そうしてすっかりあらわになった瞳は、じゅくじゅくと潤んで溶けて嵩が減ることさえ危惧された。そんなことがあったらこれは非常な損失である。手荒に扱われた希少な石を鑑定する宝石商とさして変わらぬ真剣な面持ちで、花袋はぐっとそこへ顔を寄せてみる。蛍光灯の明かり程度であっても、彼の大きな瞳の中に短い糸様のものが落ちているのが見えた。赤い色をしているので彼の睫毛だと知れたが、睫毛までくれない色をしているのか、と花袋はちょっと出来のいい細工を見るような心地で頷く。
 さて、これを彼の瞳の中から取り除くにはどうするか。考えるまでもないことだった。
「おい――」
 と彼にしては珍しくうわずったような声が聞こえたが、これはすっかり無視して、花袋はそのまま顔を近づけてゆく。必然、彼我の距離はほとんどゼロとなった。押さえつけていた手が思い出したように抵抗を始めたが、体勢のためかほとんど力が入っていない。それをいいことに、花袋は舌の先をすぼませて、ぺろり、とまず右目を舐めた。見ていただけには磁器かガラスの温度を有しているように思われた眼球は、もちろんそんなことはなく、しかし舌よりはやや冷たく感ぜられた。涙の味を知覚するかどうかのところで、舌先にあるかなしかの異物を感じてそれを上手にすくい出す。べ、と出した舌からは糸のような睫毛がとれた。成功だ。
 そのことに気をよくして、花袋は次に左目に取りかかろうとした。睫毛を吐き出すときに手を放してしまったが、独歩の両腕は花袋の上着の裾あたりを良い子で握りしめている。それはよかったのだが、いざ左目に顔を近づけてゆくと今度は独歩が、ぎゅうと目をつぶってしまうのである。これではやりようがない。
「おい、独歩。目」
「……」
「おいってば」
 言い口は確かに、ちょっとは乱暴だったかも知れない。しかし、頑是無い子供でなし、気の知れた友人に言うには適していたと、後から思い返しても花袋にはなにが悪かったのかさっぱりわからない。
 ともかく、独歩のつむった瞼からは次第に水がにじみ、目頭に一滴溜まった後、つう、と頬へと流れて零れた。あんまり近い距離で見ていたせいか、花袋はしばらくそれが涙であることに気づけなかったくらいだった。
「はあ? なんで泣いてんだよ」
「……知るかっ、出てけ!」
 おとなしくしていたと思ったのに、独歩は急に花袋を突き飛ばした。一歩たたらを踏んで、見返した友人の顔はそれは奇妙なものだった。顔を真っ赤にして、泣いたせいか擦ったせいか、目尻のあたりはとくに赤々と染め上げて、花袋のことを睨み付けるのである。
「なあ、どうした」
「うるさい! さっさと出てけ!」
「……はあ」
 独歩は花袋から顔を背けるようにして机へと突っ伏している。もう彼の表情はうかがえない。しかし、後ろ髪から覗いている耳が真っ赤になっているのは見間違えようがない。
 独歩はもうこちらの話も聞く気がないようだ。彼は癇癪持ちの気があったから、こうなっては手の付けようがない。まあ、あれだけ涙を流せば問題ないかと、花袋は言われたとおりに部屋を出ることにした。
 扉を閉める直前のやりとりはこうだった。
「また痒くなったら擦らずに俺に言えよ」
「言うか馬鹿野郎!」
 扉の向こうからの罵倒に肩をすくめつつ、花袋はすごすごと自室へ帰った。

 これは後日の話だが、食堂で新見が「目にゴミが入っちゃった」と目を擦っているところに出くわしたので声を掛けようとしたら、後ろから物凄い勢いで独歩に詰め寄られて廊下に連れ出されるという出来事があった。
「あんた、あんな馬鹿な真似誰にでもやってるんじゃないだろうな……!?」
「馬鹿な真似ってなんだよ? 俺はただ、目薬があるから分けてやろうと思っただけで」
 と、ポケットから使い切りの目薬を取り出して見せる。念のため森から貰っておいたのを、独歩があれから何も言ってこないものだから腐らせていたのだ。
 二人を追いかけて廊下へと出てきた藤村が、メモとペンの用意をして「ねえ、その話、ちょっと詳しく聞かせてよ」と待ち構えている。独歩は急に顔を赤くしたかと思うと、目を見開いて愕然とした。その瞳は、文句なしに美しい、花袋の好きな花緑青の色である。

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