暦の上では春であろうと今日も昨日と同様に寒い。
悴む手を腰に巻いた着物の中で温めながら司書室に赴いた秋声は足を踏み入れてすぐそこに人影を認め、ふと片眉を持ち上げた。
「……国木田?」
適度に暖房の効いた室内でこたつに首まで埋もれ丸くなっているのは国木田独歩であった。天板に乗っていた頭がごろんと秋声を振り返る。いつもはきちんとセットされている紅梅の髪がほつれて頬やら額に散らばっていて、その様はどこか幽鬼のようにも見えた。
「徳田か」
「なにやってるの、君」
「別に……」
眠たげな声とともにふたたびごろん、と首が転がってそっぽを向く。黙ってそれを見下ろしていた秋声の視界にふと壁掛けのカレンダーが映る。二月四日、日曜日。月曜が休館日となる図書館とは違い、特務司書の特別業務は赤い数字が休養日に当てられている。転生文豪も又しかり。つまり今日は潜書やら助手やらが割り当てられている文豪はいないはずであり、ここに国木田が待機している理由もそれであるはずがない。もっとも、もの好きな文豪などは休養日であろうが自ら図書館の手伝いを買って出ることもあるが。今日の自分のように。
無言の後頭部に決まりが悪くなって、秋声は問われてもいないのに自分の用事を口にしていた。
「僕は館長に頼まれて読み聞かせの参加者名簿を取りに来たんだけど……ねえ、君は行かなくて良いの、島崎も田山もいるよ」
「……行かない」
「そういえば今朝から田山が探していたよ。もしかして君、朝からずっとここに——」
「行かないって言ったろ」
「……」
やや強い語気で言い放たれたそれに、怯むより呆れた。つまり、彼は逃げているのだ。本当に朝からずっと、ここに隠れていたのだろう。
はあ、とこれ見よがしに溜息をついてみせる。
「昨日の喧嘩、まだ続いてるんだ」
今日が立春であるならば当然、昨日は節分だった。昼過ぎ、半ドンで暇を持て余し談話室に屯していた文豪達に供されたのは大量の炒り大豆である。昼前に近所の子供達を招いて鬼遣らいが行われた、その残りということだった。豆まき自体は午前中に子供らと楽しんだ文豪が大多数で、そこで改めてということにはならなかったが、それが良くなかったのか。この後ちょっとした災難がこの場に降りかかることになる。
その時秋声もまた談話室にいた。八つ時と言うこともありその炒り豆は小腹の空いた文豪達に歓迎された。ちょっとつまむのにはうってつけだ。本を読みながらでも手指が汚れない。一度酒飲み連中がやらかして以来談話室内持込厳禁の触がなければ、きっと酒にも合っただろう。塩気と炒り具合がちょうどよいのだ。これは普段から食通気取りの文豪どもに三度三度食事を提供している厨房が、こんな些末事にも遺憾なく能力を発揮したせいだと思われた。それ故に食べ過ぎには注意したいところだ。豆は案外腹に溜まる。あまり食べ過ぎると夕食が入らなくなる。
「先生、その辺にしておいてくださいよ。夕飯が入らなくなって鏡花に怒られるのは、なんでか僕なんですから」
露伴と将棋を打ちながらぽりぽりと豆をつまむ手を休めない師に、チクリと諫言を呈する。
「む。しかしな、手が止まらんのだ」
「先生……」
「はは、じゃあ残りは全部俺が食べてやろうか」
つい、と横から豆の入った小鉢を奪おうとする露伴に、師は慌ててそれを抱え込んでいる。幼子のような仕草に呆れつつも、ここで無理に取り上げると機嫌を悪くして後が怖い。
「包んでおきますから、また明日にしてください」
そんなやりとりをしていると、すぐ近くから似たような台詞が耳に飛び込んできて、秋声の気がそがれる。
「独歩、いい加減にその辺にしとけよ。夕飯食えなくなるぞ」
「うん? ……うん」
田山の苦言に生返事を返してるのは国木田だ。手元の本に夢中で言葉は脳まで届いていないらしく、そう返事する端からまた豆の入った鉢に手を突っ込んでいる。
「おいってば」
「なんだ、花袋」
豆を掴んだ手が引き抜かれる前に素早く腕を掴まれ、彼はようやく本から顔を上げた。むっと口を結んでいる田山に対し、それをなんとも思っていないような普段通りの表情をしているから、田山の機嫌が一段と下がるのが手に取るようにわかった。
それを目の端で追いかけていた秋声は、また始まった、と内心で零した。
この二人はどっちもどっちなのだ。親友に対して少し過保護な面のある田山。秋声は、鏡花というたんこぶがあるからこそ一応は師の行いに口を出したのであって、そうでなければ過保護な親でもなし、いい年した大人にわざわざそんな注意などすすんでするものかと思う。しかし田山は違う。どうも本気で国木田のことを心配して、いちいち口を出しているものらしかった。若く健康な肉体を持って転生した今生で、お八つの食べ過ぎで一食抜いたくらいでなにが起きるわけでもあるまいに、国木田の生活習慣が乱れることに本人以上に気を遣っている。そして国木田本人もその過干渉をそう嫌なものでもないと思っている、らしい、というのが転生以来の二人を間近で観察してきた秋声の結論だ。今だって取り澄ました顔をしていながら、自分のことで機嫌を上下させる親友を見て少なからず気をよくしているのだ彼は。趣味の悪いことに。
割れ鍋に綴じ蓋。だからこのやりとりも国木田の気が済めばじきに収束するはずで、好きにやってくれとそれ以上のことを耳に入れるつもりもなかった。次の田山の台詞を聞くまでは。
「もう十分食っただろ。福豆は歳の数までにしとけ」
「……ああ?」
聞き間違いでなければその「あ」には濁点がついていた。普段聞かない国木田独歩の柄の悪い声音に、一斉に談話室中の注目が集まる。ざわめいていた室内が波が引くように無音になったのを、二人だけが気付いていない。
「まさか数えてたわけでもあるまいし、あんたにそんなこと言われる筋合いはないね」
「……いーや、数えてました! 当年とって三十六粒。今年入れたら三十七か? いずれにしろそんだけ食べたら十分だ。残りは寄こせ、俺が預かっとく」
引っ込みがつかなくなったのか、田山もまた声を大にして言い返す。それにさっと顔色を悪くしたのは国木田だった。ゆらりと立ち上がった彼の唇は、気のせいでなければわなわなと震えてはいなかったか。
「ひ、との、寿命に口出すとは、随分無神経なことしてくれるじゃないか田山先生よ! あんたはいつの間にそんなに偉くなったんだか!」
「恨むんなら前世の自分を恨めよ! お前がそんなんだから今生はそうならないように俺が面倒見てやってんだろ!」
「余計なお世話だ! なんだ面倒見てやってるって、恩着せがましい、俺はあんたに面倒見て欲しいなんて頼んだ覚え、ひとっこともないね!」
「……! そんな風に思われてたとは知らなかったぜ! じゃあもう好きにしろ、豆でも何でも食って夕飯抜いてろこの分からず屋!」
「あんたに面倒掛けるくらいなら分からず屋で結構! 言われなくたってなあ、俺は好きなときに好きなもん食ってせいぜい好きに死んでやる! どっか行っちまえこの臆病者!」
また最後の一言がいけなかった。国木田ばかりか田山まで顔を青くして、表情を無くした二人がほぼ同時に立ち上がった。
「おまえなんか」
「あんたなんか」
「「絶交だ!!」」
「……」
胸ぐらをつかみ合ってのやりとりは、そのようにして派手に終止符が打たれた。乱暴に手を離した二人は鼻息も荒く、談話室の別々の扉から別々の方向へとそれぞれ去って行く。
嵐のような数分間だった。
「……けんちゃん、ぼく、もう三十個以上お豆食べちゃったけど、駄目かなあ」
残された文豪らはしばらく固まっていることしかできなかったが、さっきまで賢治といっしょになって絵本を読んでいた新見がぽつりと呟いたのを皮切りに、徐々に会話が戻ってくる。
「え、もしかして俺様、二十六しか食べちゃいけなかったのか?」
石川がふと残った皿の中身を覗き込んで隣の若山に尋ねている。また逆に、武者小路と志賀などは苦笑いで囁き合った。
「さすがに九十粒は食べられないなあ」
「そんなに豆ばかり食ってもしかたねえしな」
さて、例のごとく貧乏くじを引いて、流れで師どころか友人らの散らかした机の後片付けまでする羽目になった秋声はといえば、力なく肩を落としてぼやくしかできない。
「くだらない……」
まったく、本当に。
そのぼやきが、今もまた思わず口からついていたものらしい。くたりと力の抜けていた体を僅かに起こした国木田は、こたつの天板の上に残ったシミに目を落としたまま呟いた。
「くだらないって、あんたは思うかもしれないけど」
「……」
「年齢の話を出されるのは嫌なんだ。あんたたち、たまに俺の知らない話をするだろ。そういうの、思い知らされるみたいで、……いやだ」
「……」
「俺だって、好きで早死にしたわけじゃないんだ」
「……そういうのは、田山に言いなよ。直接」
「そうするとあいつ、わざとらしく俺との思い出話ばっかりするだろ。気を使わせてるのが丸わかりで辛い」
「どっちなのさ。ああ、もう、面倒だなあ……」
動く口とは裏腹に、秋声はすこし意外な気持ちでいた。国木田独歩という男は田山を振り回すだけ振り回しておいて、自分は振り回される前に身を引いて一段高いところから眺めているような、そういう男なのだと思っていた。田山があんなだからというのもあるが、来る者拒まず去る者追わず、構われれば悪い気はしないが束縛されるのは好まない。ましてや自ら誰かを束縛にかかることなどないのだろうと。確かにそれは彼の一面として正しくはあるのだろうが、どうやらそれだけではなさそうだ。
物思いに耽っていると、じっ、と二つの翡翠色をした目玉が自分を捉えていることに遅まきながら気がついた。
「な、なに」
「あんたには言っておかなきゃならないことがある」
「なにさ」
「……誕生日」
「は?」
「誕生パーティ」
「あ、ああ、こないだの田山の?」
「そうじゃなくて、生誕五十周年の合同記念パーティ!」
誕生日、と聞いて記憶に新しいのはつい先日、一月下旬にあった田山の誕生日なのだが、彼が言及しているのは何十年も前の前世のそれのことらしい。そういえば最近そんな話をした。誕生日といえば、徳田と田山の合同誕生会はなかなか興味深かったよね、と、当時の参加者である文豪何名かを交えて。それが気に食わなかったのか。彼が言うところの『俺の知らない話』だったから。
やぶにらみにこちらを睨み付けた国木田が、むすっとした顔で付け加える。
「俺が生きてたら、花袋の横に並んでるのは俺のはずだったんだ」
「はあ……?」
「俺も花袋と一緒に誕生会したかった!」
「いや君、田山より一つ年上じゃなかった? 生きてても合同で祝うのは無理があるんじゃ——」
「あーうるさいうるさい! そんなの知るか、あいつの隣に座るのは俺じゃなきゃ嫌だ!」
なんだ。これは要するに。
「拗ねてるのか……」
前世の享年の話など持ち出されて地雷でも踏み抜かれたのかと思いきや、子供みたいに拗ねているだけなのだ。ふだん田山に世話を焼かれるのは嬉しいくせ、生きた歳月を持ち出されて本気で年長者ぶられるのは気に食わない。常に自分を見ていて欲しいが、過度に気を遣われるのは嫌。対等でいたい。横に並びたい。同じ場所に立って同じものを見ていたい。
そういうことなのだ、結局は。
「はあ、馬鹿らしい……」
「なんだ、言うに事欠いて——」
溜息交じりの感想に国木田が食ってかかる前に、ガチャリと司書室の扉が開いた。
「おーい秋声、名簿見つかったかー? 人数分のおやつも食堂でもらってきたぞ。そろそろ行かないと時間が……っ、て、あ、独歩!」
「ああ田山、ちょうど良かった。それは僕が持ってくから、君はもうちょっとゆっくりしていきなよ。君たちのぶんはちゃんと置いてくからさ」
さっと立ち上がった秋声は、机に出しっぱなしだった名簿を掴むとすれ違いざま、田山の両手が捧げ持つトレーの上から、二人分を除けて残りを取り上げた。
トレーを二人分の皿にすげ替えられて立ち尽くす田山を、国木田がこたつから見上げている。あーうーと唸っている田山が覚悟を決めて腰を下ろせば、あとはなるようになるのだろう。おあつらえ向けの菓子もあることだし、と秋声はトレーの上に並んだそれに顔を近づける。甘く焦げたなんとも香ばしい薫りが鼻腔を擽る。昨日食べきれなかった炒り豆を使って今朝から志賀が作っていた、キャラメルの洋菓子。たっぷりの豆が練り込まれているから、歳の数など数えるのも馬鹿らしくなるはずだ。
そっと司書室を抜け出せば外では島崎が一人、壁に背を預けて立っていた。秋声の姿を見て顔を上げた彼を伴い、二人は読み聞かせの会場に向かって歩き出す。
「仲直りできそう?」
「たぶんね」
主語のないそれに軽く返せば、島崎は唇にあるかなしかの微笑みを乗せた。
「よかった。……やっぱり今日だから、かな」
「どういう意味だい?」
「東風解凍(はるかぜ こおりを とく)。もう春が来ているんだもの」
(第1回花独ワンドロお題使用)


コメントを残す