国定図書館の一たる帝国図書館は、侵蝕者研究の最前線である以前に日本国でも随一の蔵書量を誇る国立図書館である。利用には基本的に他館からの紹介状を必要とするとはいえ、広く一般に開かれているといってよい。であるからして、魂の存在たる文士があちこち闊歩するほかに一般の利用者も少なからずあった。そうはいえども、場所が場所なので普段はどれほどの人が行き来していようとも、図書館は静寂で満ちているのが常である。むしろ、文士どもが引き起こす騒ぎのほうがよっぽど利用者や近隣住民から顰蹙を買っているほどで——それはともかく。
そのような帝国図書館にあって、独歩は子供の声を初めて聞いた。それも図書館の全体に響き渡るような、子供の泣き声である。ああーん、おあーん、と一種の獣のように、甲高い声は館内によく響いた。潜書もなくこれといった用事もない休養日、だれか誘って街にでも繰り出そうかと思案していた彼は、吸い寄せられるようにしてその声の発生源へと足を向けていた。
果たして、子供は本館の玄関ポーチを入ってすぐ、主開架書庫前の待合ロビーにいた。横には徳田秋声が眉を寄せてしかめっ面をしてついている。
「おーおー、どーした。どっかから浚ってでもきたか」
そう声をかけると、彼は眉間にもう一本皺を寄せて独歩を見たが、すぐに助かったと言わんばかりに大きく息をついて肩を下げた。彼の内心が透けるようである。
「よしてくれよ。迷子だよ、迷子。どうも利用者が連れてきたみたいなんだが、置いてかれたのか迷ったのか、さっきからこの調子で……」
「館内中に響いてたぞ。親だか保護者だか、聞こえていれば飛んできそうなものだけどな」
「一応そこの開架は見たんだよ。でもそれらしい人はいなくってね、多分別館の閉架のほうじゃないかな。外から来た人たちは、だいたいあそこで調べ物をしていくだろ」
二人がそうやってやりとりをしている間も、子供は大口を開けて泣いている。見れば、まだ小学校に上がる前くらいの、お下げ髪の女の子だった。チェックのワンピースに黄色いポシェット。エナメルの靴は下ろし立てのようにぴかぴか光っている。贅沢ではないがきちんとした身なりで、愛されているのが傍目にもわかった。親もきっと、わざとここに置いてけぼりにしたわけではないだろう。
「別館じゃあ聞こえないかもなあ。——ねえお嬢さん。そんなに泣いてちゃあ、せっかくのべっぴんさんが台無しだ」
独歩は目線を合わせるように膝を折ると、ポシェットの紐をぎゅうぎゅうと力任せに握りしめていた手にそっと触れてやった。子供が自分を認識したのがわかると、彼はにこりと微笑んでみせる。それだけで、すう、と泣きわめくのを止めた子供を見て、秋声などはかえってぽかんとした。
「それが君の手管かい」
「はあ、何が」
「いや、なんでも。……それより、ちょうどよかったよ。僕はこれから潜書なんだ。君、ちょっとこの子の面倒を頼まれてくれないかな」
もともと暇を持て余していた独歩である。それに子供は嫌いじゃあない。彼は一にも二にもなく了承した。
■
潜書から戻った花袋は、たまたま会派筆頭を任されていて司書室に寄ったおかげで、そこに居合わせることができた。
司書室の前には「不在」の札が下がっていたが、報告だけはあげておかなければいけない。不在の際も勝手に入って結果の記入をしていくようにあらかじめ言われていたので、花袋は遠慮なく戸を開けて、部屋に入った。そして、開けっぱなしの縁側に人影を認めたのはすぐだった。
「独歩? お前、何して——」
言いかけて、彼が口元に人差し指を立てているので、反射的に口を閉ざす。また、そこに珍客があることにもすぐに気がついて、花袋は音を立てぬように忍び足で、縁側へとにじり寄った。
縁側に腰掛けている独歩の脇に、小さな子供があどけない顔をして眠っている。腹を冷やさないためにか、独歩の上着は掛け布代わりに使われていて、本人は灰色のシャツを肘まで腕まくりして、その子のために団扇を仰いでやっていた。
「ようやく寝たとこなんだ」
と、子供とは反対側の独歩の隣に腰掛けた花袋に、彼は囁くような声音で教えた。
「どこの子だ?」
「朝からやってる有識者会議の出席者が連れてきたみたいなんだ。午前中は書架でおとなしく本を読んでたみたいだが、昼を食い終わった後にまた親と離されて、寂しくなったみたいで。会議が終わったら司書も帰ってくるだろうから、それまで相手してた」
「それでか、お前」
花袋は気になっていた彼の頭についたそれを、ちょんとつついた。
耳の脇、左側にいる花袋のちょうど目の前に差し出されるような位置に。ひまわりの花が一輪、咲いている。
また眠っている少女のお下げ髪にも、茎を巻き付けるようにして、おそろいの小ぶりのひまわりが結わえられていた。そちらはおそらく、独歩の手によるものだ。
「このくらいでも、しっかり女の子なんだもんなあ。なんでも、もうすぐ妹が生まれるんだってさ。そうしたらこうやって髪を飾ってやるんだって、練習台にされちまった」
口ぶりによらず、彼の横顔は穏やかである。その団扇を仰ぐ手つきの優しいこと。
花袋は彼の頭のひまわりを見るふりをして、独歩の横顔を眺めていた。伏せがちの瞳にかかる長い睫毛、口元のやわらかな曲線。夏の日差しのつくる濃い影の下であっても、はっきりと白い肌。
夏は独歩に似合いの季節である。彼の気性のせいか、あるいは彼が好きだと言った季節だからか。
彼自身もまた、夏みたいなところがあって、たとえばその苛烈なまでに激しい気性や曲げることをしない信念はまっすぐに振り下ろす日差しのようだし、屈託のなさはまさに髪に挿されたひまわりのようである。それでいてつかみ所がないように感じさせられるのはさながら逃げ水か。
花袋には時々、彼の生き様はまぶしい。まぶしすぎて、直視できなくなることがある。そんなにまっすぐ注がなくてもよい。そんなに熱を上げなくてもよい。
焼け付くような蝉の鳴き声。時折吹き抜ける風鈴の音色。
たまらなくなって、花袋は両手を後ろについて大きく空を仰いだ。
「まぶしいなあ」
「そうだな」
独歩は入道雲の湧き上がる空を見て頷いた。
それでも花袋は夏が好きである。好きであるから、まぶしくても目を離せないのだ。


コメントを残す