隠せ湯けむり、この恋心

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 帝國図書館に温泉が湧いた。その一報がもたらされたのは秋も深まる九月末。それから無茶な模様替えに定評のある特務司書によって湯船がこしらえられるまで一週間もかからなかった。文豪寮の大浴場とは別に、その温泉のためにわざわざ離れが作られたというから本格的だ。温泉、旅館といったワードに弱い文豪達はさて誰が一番にその恩恵にあずかるかと水面下で牽制し合っていたが、竣工日のその日に司書からまさかの鶴の一声がかけられた。
「そりゃあ、ここは一つ田山先生にお願いするべきでしょう」
「えっ、俺?」
 温泉と聞いて気にならないわけがなかったが、これだけ文士の数がいれば回ってくるのは一ヶ月後か二ヶ月後か、年内に入れれば御の字だな——なんて悠長に構えていた花袋は突然の指名にひっくり返りそうになった。是非一番に入って貰ってその泉質その入り心地をリポートして欲しいとの依頼であった。まさか生前書き残した旅行記・温泉評の類いがここへきて役立とうとは。
 さほど広い風呂ではないのでそう何人も一緒に入ることはできないが、もう一人くらいなら。そう聞いた花袋はその足で早速独歩を誘いに行った。
「えっ、俺?」
 誘われた独歩はなぜか、花袋と同じような反応をする。てっきり諸手を挙げて歓迎すると思っていたので、肩すかしを食らった気分だ。
「なんだ? 嫌だったか?」
「そりゃ、嬉しいが……てっきり島崎を誘うもんだと思ってたから」
 前から、あいつと温泉に行きたいって言ってただろう。
 そう言われてみれば、確かにそうだった。しかし花袋には自分がなぜ藤村ばかりを誘うそぶりをしたのか、その心当たりがない。藤村も独歩も、彼にとっては同じくらい大事な親友であるからして。
「別にお前とでもいいよ」
 そう答えると、独歩は苦しそうに笑って、わかったと頷いた。

 しかし、いざ温泉に入る段になって思い出したのだ。
(そうだった……。こいつ)
 宿泊の設備もあるということで、夕食後に二人離れを訪れた。さっそく目当ての温泉を楽しもうと脱衣所に入って、するするとためらいなく着衣を脱ぎ始めた親友の後ろ姿を見、花袋は後悔する。
 普段大浴場などの明るいところで見る背中と違い、ほの暗く調節された明かりの下では、女のように滑らかな肌に浮いた背骨の微かな凹凸にさえ陰影が寄り添った。尖った肩甲骨、丸みのついた肩、後ろ髪に隠れて見えないうなじ。それを凝視することがいたたまれず、花袋はなんとかそこから一度視線を剥がすと、あとは注意してそちらを見ないようにした。今思えば、藤村ばかり誘っていたのは無意識のうちにこの事態を避けていたからとしか思えなかった。
「どした。先行くぞ」
「お、おう」
 一人残された脱衣所で、変にばくばく言う心臓を落ち着かせるため深呼吸する。すべては、あんな綺麗な顔で転生してくれた独歩が悪い。そんな風に自分に言い聞かせるが、この瞬間まで背中ばかり見ていて彼の顔などろくに目に入っていないことを、花袋は自分で気付いていない。
 さて、いつまでもここでこうしているわけにも行かず、独歩の後を追って浴室に入る。そこは家族風呂くらいの広さで、天然木でできた床に壁、その一方は完全に取り払われて、夜の庭がよく見えた。色づき始めた紅葉の向こうに大きな満月が掛かっている。天井の竹細工で囲われた明かりは頼りない薄暗さであるのに、室内のよく見えるわけはその満月のせいだった。
 独歩は、檜造りの湯船の縁に腕をついてその満月を見上げるようにして湯に浸かっていた。湯けむりが立ち上っていて、さっきよりよほど視界が悪いことは花袋の助けになった。安心して、たがやはりそちらを直視しないようにして、そろりと湯船に近づく。なみなみと源泉掛け流しの湯が満たされたそこからかけ湯して、花袋はそっと足を浸けた。
「……」
「……」
 しばらくどちらも無言だったのは、やはり普段の様子から言ったらおかしかった。二人揃ったら、なにくれとなく会話が弾むのが彼らだった。独歩は花袋に悟られないようにしてそっと後ろを振り返る。せっかく温かい湯に浸かっているというのに、むっすりと黙りこくってまるで安らいでいる様子ではない。
「なあ。やっぱり島崎と入りたかったんじゃないのか。さっきからずっと落ち着かないみたいだし……、今からでも俺、島崎を呼んできてやろうか」
 自分で言ってみて、そうだそれがいいと、独歩は湯から上がろうとした。しかしその腕を花袋が掴んで止める。
「行くなよ」
「だって、あんた」
「お前でいいんだよ。……ちがうな。お前がいいんだよ」
 だから座れ、とつかまれた腕を引かれて、湯の中で隣同士に座った。そこまで近いともう湯けむりは役に立たない。お互いのぼせたみたいに顔が赤くて、このままではいくらもしないうちに倒れてしまいそうだった。

 さて現代に蘇った紀行作家田山花袋の帝國図書館温泉評がどうだったかはさておき、この温泉はさる事情から「えんむすびの湯」と別名を与えられ、文豪達に末永く愛されることになるのだが、それはまた別の話としよう。


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