唇と唇が離れた後、独歩はひどく満足を覚えて自然と溜息をついていた。
十代の子供のような接吻だった。目を瞑って、唇を合わせて、押しつけて、ほんの、ほんの少しだけ舌先をお互いの口内に潜り込ませて触れ合う。彼の口内はあたたかった。その舌は肉厚で唾液はなぜだか甘く感じた。
幸福な気持ちで瞼を上げた独歩は、しかし目前で難しい顔をした花袋と対面する。全く思ってもみなかった表情に至近距離で相対して、膨張しきった満足がするするとしぼんでゆくのを感じる。
「おい、なんだよその顔」
不安を押し殺して敢えて挑発的に問うた独歩に対し、花袋はぎゅっと眉根を寄せて、一言。
「……苦い」
「あ?」
それが二人の初めての接吻の記憶になった。
■
国木田独歩が禁煙を始めたらしい、という噂は瞬く間に図書館中に知れ渡った。もとより娯楽の少ない場所である、加えて文豪なる人種がわんさと集まっているから、人の噂話なんていうのは彼らの格好の題材に違いない。また、独歩が喫煙所の常連だったのも噂の広がるスピードに拍車を掛けた。どこかの誰かみたく片時も煙草を手放せないチェーンスモーカーとは言わないまでも、食事の後、仕事の後、風呂の後には必ず喫煙所に立ち寄るといった愛煙ぶり。また、女好きのする甘いマスクがやや場違いなのもあって、喫煙所での彼の姿はちょっと目を引いた。転生したばかりの文豪などにはよく驚かれるのだが、彼だって明治の文豪、煙が嫌いなはずがないのである。
その彼がパタリと姿を見せなくなったのだから、まず喫煙仲間の間でそれが話題になったのは、当然と言えば当然だろう。
「禁煙してるんだって?」
中庭のベンチで本を読んでいた独歩を捉まえて直截に尋ねたのは、文名と同じくらいに愛煙家として名高い芥川だった。ここいいかい、と形ばかり許可を取って独歩の横に座った彼は、早速袖の中から敷島を取りだして唇に銜え火を付ける。その流れるような所作に、独歩は文句を言うより先に呆れた。
「そう思うんだったら俺の前で吸ってくれるなよ」
「僕は禁煙していないからね」
この二人、生前に付き合いはないが、転生してから喫煙所でよく顔を合わせるので今はそれなりに交流があった。年長者、かつ尊敬する先駆者に対して初めは敬語を使っていた芥川だが、独歩が嫌がって止めさせたのもあって、端から見てもなかなか気安い仲に見えるだろう。
「国木田さんがいないから喫煙所もすっかり寂しくなってしまった」
「嘘を言えよ、アンタの周りはいつも大概賑やかじゃないか」
「それにしても、どうしたの急に」
すぱすぱと煙草をふかす男に、独歩は訝しむ視線を向ける。いくらそれなりに気安いとはいえ、禁煙の理由を態々問いただしに来るような男だろうか。
「………………胴元は誰だ?」
その直感からそんなことを聞き返せば、芥川はぷはっ、と煙ごと吹き出す。
「ご名答。流石に露骨だったかな。まあ、ほんの余興だよ」
「やっぱりな、編だと思った。さて、アンタの親友が勝てれば良いけどなあ」
賭け事と聞いて黙っていないだろう、これも喫煙所の常連の顔を思い浮かべる。しかし、そういうことなら答えてやらねばならないが、さて、なんと答えたものか。
「花袋が」
花袋が、俺との口づけを苦いと言うから。
——駄目だ。流石にそれは言えない。つい先日に変化したばかりの彼との関係を誰彼と言いふらして回る趣味はない。それに、ここで芥川にそんな話をしてみろ、図書館中に喧伝するようなものではないか。
「……あー、花袋がな。嫌がるんだ」
渋々絞り出したのはそんな中途半端な回答だった。嘘ではないが本当でもない。それを聞いた芥川はああ、なるほど、と何故か納得している。
「わかるよ。僕も、たっちゃんこが今生でも煙草を吸っていたのなら、止めさせるだろうからね」
「なんでそこで堀が……」
うんうん頷く芥川に問い質そうとして、はたと気がついた。つまり、そういうことか。いや、違う。花袋は別に、独歩の健康を気遣っているわけではない。ただ己が苦いのが嫌なだけで。そもそも花袋は止めろとも言っていない。花袋であろうが他の誰かであろうが、命じらたから止めるなんてことは、独歩は決してしないだろう。止めたのは独歩の勝手だ。……そのはずだ。あいつにそんな腹芸ができるものか。できて、たまるものか。
「煙草は体に悪いからね、止めるにこしたことはないよ。そうだ、はい、これ。もしよかったら使ってよ」
と、芥川が袂から取り出したのはミント味の禁煙ガムだった。誰からもらったかしらないが、そのガムがもし物を喋ったら今の独歩と同じことを言うだろう。
「違う、そうじゃなくて——」
■
唇と唇が離れた後、花袋はひどく満足を覚えて自然と溜息をついていた。
十代の子供のような接吻だった。目を瞑って、唇を合わせて、押しつけて、ほんの、ほんの少しだけ舌先をお互いの口内に潜り込ませて触れ合う。彼の口内はあたたかった。その舌は猫の舌のように薄く、唾液はなぜだか甘く感じた。
幸福な気持ちで瞼を上げた花袋は、しかし目前で難しい顔をした独歩と対面する。全く思ってもみなかった表情に至近距離で相対して、膨張しきった満足がするするとしぼんでゆくのを感じる。
「おい、なんだよその顔」
不安を押し殺して敢えて呆れを滲ませ問うた花袋に対し、独歩はぎゅっと眉根を寄せたが、別に、と一言答えたきり。
それが二人の二度目の接吻の記憶になった。
二度目のキスは、薄荷の味がした。
(第3回花独ワンドロお題使用)


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