「ただいまー……」
朝起きて、昼仕事して、夜、誰もいない部屋に帰る。
そんな単調な毎日が変わったのは、ほんのつい最近。
24時間営業のスーパーで買ったたたき売りのマグロの刺身一パックと惣菜を手にドアを開けると、すり、と足下に寄ってくる柔らかな感触。ビニール袋を持っていない時はここまで寄ってこないから、マグロ目当ての仕草なのだとしても、癒やされる。
しゃがんで頭をなでてやると、すりりと寄ってくる幸せ。
「ただいま、わに」
わにのいる生活
「ちゃんとペットフードやってるんだから、食べ過ぎるなよ」
テレビをつけて、買い置きの缶ビールを開けながら、パックの中から赤身を一切れつまんで差し出すと、はむ、と食いついてくる。たまに引っ張ったり、揺らしたりして、意外と鋭い歯がうまいこと食いちぎるのを楽しみながら、ビールを一口。
栄養バランスのいいフードを毎日与えているのに、どうやらマグロは別腹らしい。おやつみたいなものだろうか。本来肉食の生き物だから、食べさせて悪いということはないだろうが、与えすぎもよくない。
今度は自分で食べるつもりで、箸でつまんで醤油につける。つぶらな瞳がじっと箸の動きを見ている。
「だめだめ、これは俺の」
口に運ぶ前に、出来心で一瞬、箸で挟んだままわにの上を通過させる。きらり、と輝く瞳。あー、と開く口。期待させておいて申し訳ないなあ、と内心で謝りつつも、宣言通り自分でいただく。口を開けたまま、「え?」という顔つきになるのがかわいい。その表情のままじっとこちらを見つめてくる。
「はいはい、わかったわかった。もう一切れだけな」
視線に負けて次の一切れを差し出す。また食べられてしまわないようにか、さっきよりも勢いよくがっつく。
「よく噛んで食べろよー」
そんなこんなで、気付くと毎回半分ちかくわにに食べられてしまうが、それを見越して一人分には少し多めのものを選んでしまっている自分に、独歩も気付いている。
食事を終えて、さっとシャワーを浴びれば、もう日付が変わっている。わにと戯れる時間が少ないことを残念に思いながらも、就寝。髪を乾かしている時に見たわには、部屋の隅のケージの中で丸くなって寝ていた。わにはよく寝る生き物らしい。
電気を消してベッドに潜る。窓の外の明かりだけがわずかに差し込む室内で、うとうととまどろんでいると、足下の布団がごそりと持ち上がる感触。足の裏に、まるで求肥を踏んでいるようなしっとりとした肌触り。
(わに……)
半分眠って半分起きているような、中途半端な状態で、足下からもぞもぞとわにがのぼってくる感触がする。最終的に脇の下で落ち着いたのか、あたたかな体温はそこで動かなくなった。見えないけれど、きっとそこで尻尾を抱え込んでまるくなっている。
なんとなく幸せな気持ちで、また眠りに落ちる。
翌朝は休日だ。独歩が目を覚ますとわにはもう起きて自動給餌器のところに餌を食べに行っていた。
「おはよー、わに」
わにはめったに鳴かないので、独歩が声を掛けても返事はしない。ただ、自分が呼ばれたということはわかるらしく、顔を上げて目を合わせてくる。前に一度誤って尻尾を踏んでしまったことがあるが、そのときは「キュッ!」とオモチャのように高い声で鳴いた。かわいかったが、何度も痛めつける気はないので、あの鳴き声は心の中に大事にしまっている。
朝食を食べた後は、わにをつれて散歩に出かける。独歩が休みの日にしか外へ連れて行ってやれないので、毎週末欠かさず散歩に連れて行くのが習慣だ。
「わにー、散歩だぞー」
リードを取り出すとわにも散歩だということがわかるのか、尻尾を振って駆け寄ってくる。首の場所がわかりにくいので、前肢の下を通したハーネスにつける。リードをつけ終わると、早く行こうとばかり玄関に向かって独歩を引っ張っていくわに。落とし物回収用のシャベルと袋を持って、外へ出る。
散歩コースは大体決まっていて、一番多いのが図書館方面だ。あの大きな図書館には広い中庭があって、そこには池もある。その池がわにのお気に入りなのだ。わにももう道を覚えていて、何も言わずとも先頭に立って図書館への道を歩き出している。
散歩の途中、大柄な男性と行き会った。館長さんだ。
「あれ、館長さんも散歩ですか」
「にゃにを言っているのだ」
独歩の質問に、足下から返事があった。リードにつながれたネコが嫌そうな顔でこちらを見上げている。
「ネコが……しゃべった?」
「寝ぼけているのか?」
「いや、そんなことは」
ない、と言い切る前にネコがまた口を開く。
「こんなところで寝ているからだぞ。独歩。おい。独歩」
「そんな、そんなはず——」
□
「独歩。おい。独歩ってば!」
がくがくと肩を揺さぶられて目が覚めた。視界いっぱいに広がるのは心配そうな親友の顔。
「……あ?」
「はあ、やっと起きたか? お前、こんなとこで寝るなよ。風邪引くぞ」
「こんなとこ……?」
独歩が目を覚ましたことで厳しかった花袋の表情はほっと緩んだ。周囲を確認すると、そこは中庭の奥にある古びた温室である。温室であるため野ざらしに比べたら暖かいが、ところどころガラスが破れていて隙間風が吹いている。使われなくなってだいぶ時間がたったと見えるこの場所は、文豪たちの密かな人気スポットだった。なにせおあつらえ向きに古いベンチまで転がっているから、秋頃までは読書に昼寝にとよく使われていたが、冬本番の今近づく者は少ない。それこそ、独歩のような物好き以外は。
「中庭の方に散歩に行くのを見かけたんだけど、なかなか帰ってこないから心配してきてみれば、案の上だ。風邪引いてないか?」
「いや、そんなことは……って、寒!」
心配が過ぎれば次は説教の気配をさせだした花袋に問い詰められてはじめて、独歩は肌寒さに体を震わせた。両手を腰にやった友があきれたように見下ろしてくる。
「ほら、いわんこっちゃない! まったく、よくこんなとこで眠れたなあ」
「いや、さっきまでは本当に寒くなかったんだ。夢を見るくらいしっかり寝てた」
「はあ? 夢?」
「変な夢だったんだ。ええと、……——」
「?」
話しかけて固まった独歩に、花袋が疑問符を浮かべる。それでも瞬き二回分の間、思い出そうとして——諦めた。
「……忘れた」
夢にありがちな話に、がくっと肩を落として呆れて見せた花袋は、手を差し出して独歩を促した。
「はあ。もういいや。さっさと戻ろうぜ」
「ああ……」
夢の内容に気を取られて上の空の独歩は気付かない。脇のあたりに、ほのかに湿った温度が残っていたこと。何か“生き物”が這った跡が、破れたガラスを抜けて、池の方まで続いていたことに。


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