収穫が終わって落ち穂が野ざらしになった田圃に一人、私はその時を待っている。いつの間にか降り始めて止む気配のないそれが、世界を覆い尽くしてしまうのを。頭に、肩に降り積もり、皮膚から内側に染み入ってやがて心まで凍らせてしまうのを、私は一人、静かに待っていた。
転生する気などさらさら無かった。
生きることに厭いて、倦んで、自ら儚んだ命だ。再び生まれ直したいなどと望んだこと、一度だってない。此度の騒動にしたってそうだ。現世がなにやら騒がしいのは知っていたものの、けして関わろうとは思わなかった。今更うるさいのは、煩わしいのはいやだった。
それだというのに。
私は聞いてしまった。あなたが、私の名を呼ぶ声を。
彼岸と此岸を繋ぐ薄暗いトンネルの向こうから、ぼうぼうと響くかの声を。呼ばれた、と同時、トンネルの奥から突如吹き抜けた春風が私に積もった雪を散らして、襟巻きの端をはたはたとなぶっていった。ずっと降り続いていた雪は一度横殴りに降りかけて、そのまま静かに消えてしまった。
身軽になった体で、一歩踏み出して私はあなたの名を呼ぶ。
——利一。
私の水。
□□□
柔らかい革の背もたれに深く腰掛け、体全体を椅子に埋めてしまうようにして書物に没頭する。暖房の効きすぎた談話室はかえって息苦しく、誰もいないのを良いことにボイラーのスイッチは切ってしまった。耳鳴りのような暖房器具の稼働音が消え、代わりに今朝から降り続いている雨の音がしずかに部屋に吹き込んだ。その音に耳を傾けながら、私はページを繰る。
言葉は、抽出された雫だった。
あなたの中の記憶、感情、思考。洋墨とペンという濾過器を通って透き徹ったそれらは、清水となって滔々と紙上に満ちていた。
私はそれを飲み下す。
あるときは渇きを癒やすかのごとく、またあるときは味わうように、あるいは足りない養分を補うべく、私はそれを飲み込んだ。
飲んだ端から、言葉は雨となって私に染み込む。空っぽの器があなたの滴で満たされてゆくのを私は歓喜と共に受け入れた。
滴が一滴落ちるたびに、水琴窟のように心地よい調べが私の中に響く。その音に耳を澄ませ、夢間を揺蕩うこともあった。時折は満ち満ちた器へ手を差し入れ、あたたかな温度を確かめて遊ぶ。いたずらに波を立てたり、波紋を浮かべたりして、何遍も打ち寄せては引いてゆくのを、そのたびにあなたが光を反射して美しく姿を変えるのを、恍惚として眺めた。時間を忘れ、いつまででもそうしていられた。
「川端」
あなたが私を呼ぶ声がするまで。
「川端、雪だ」
雨音に耳を傾けていた、と思ったのだが、知らぬうちに寝入っていたものらしい。いつの間にか隣に腰掛けて私の半身を暖めていた利一が、まどろみから目覚めたことに気がつくと窓辺を指さして言った。寝ている間に、雨は霙へと姿を変えていた。
彼は今年最初の雪を見て嬉しそうだった。立ち上がって、窓へと顔を近づけてそれが雨でないことを確かめている。反面私の右肩は与えられていた体温を奪われ冷えた。
「積もるだろうか」
「積もりませんよ。まだ」
私は本を閉じて、素っ気なく告げた。彼は気を悪くした風でもなく、未だ外を眺めて私のことなど気にしない。
私はいつかの、雨が雪へと変わった日のことを思い出している。
利一。あなたは水。
降り注ぐ言葉は雨。あなたがいなくなって、積もる寂しさは雪。


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