潜った瞬間、「知っている」と思ったのは間違いではなかった。
降り立ったのは、萱野原の丘の小道である。空は晴れ、雲は高く低く棚引く。涼しい風が吹くたび、萱がしゃらしゃらと波打った。
秋の武蔵野。
収穫を終えた田畑の脇で黄色く色づく雑木林。野菊の群れ咲く休耕地の間を彼岸花の咲く畦道が横切る。独歩は深く深く呼吸した。秋の匂いが肺いっぱいに満ちてゆく。そうすることで、次第に自分もこの風景に馴染んでいくような気がした。
さて、通常有魂書へ潜書する場合、潜書者の著作が当たることはまずないといってよい。なぜなら、有魂書の中から自分自身の魂を引っ張り出すことはできないからだ。独歩には潜書の仕組みも有魂書の正体もわからないが、とにかくそういうことになっている。
間違いなく有魂書に潜ったよな、と独歩は手をぐうぱあして確かめる。有碍書であれば勝手に手の中に現れて武器の形に変わる本は、今は影も形もない。眼前に広がる風景が文字の形に崩れたり、色を失ったりしていることもなく、やはりここは有魂書の中で間違いないらしい。
そうであるならば、潜書者たる己がすべきことはただ一つだ。この本の中にある魂を見つけて、現世へと持ち帰ること。魂は宝石の形をしていることもあれば、人の形をしていることもある。それは見つけてみるまでわからない。
「武蔵野に散歩する人は」
と諳んじて、独歩は気負いなく足を踏み出した。見る人がいれば、まるで迷いのない足取りに見えただろう。独歩にはこの道がどこへ続いているかなど知る由もない。ただ、彼が武蔵野について知っていることは、どの路でも足の向くほうへゆけばかならず、
「そこに見るべく、聞くべく、感ずるべき獲物がある。ってね」
実際独歩はいつかのように、武蔵野をさまよい歩いた。小道が三つ叉に分かれることもあれば、その路が小さな林へ続いていることもあった。女郎花の花を摘み、小鳥の声を聞き、萱の原へ再び出て、丘の谷間の小池を見つける。途中であった人に道を尋ね、細い小道を、独歩は怖れずに進んだ。農家の庭先に出たのでまた道を訊く。すぐそこですよと教えられ、ありがとうと礼を言う。
往来は見つからない。代わりに、あたりは落葉樹の林である。いつの間に日はかなり傾き、もう空の端をほの赤く染めている。ざっと野分が吹きつけて、落ち葉を散らして通り過ぎてゆく。
そのとき独歩は気がついた。
これは楢の林ではない。樺の林だ。
武蔵野に樺はない。あるとしたらもっと北。日本ではない、異国の地。
独歩はこの風景を知っている。何度も読んだから「知っている」のだ。訪れたことのない地の、見たこともない風景を、これほど鮮やかに思い描くことができる。
「ああ、」
思わず口をついて出た嘆息は、何に対するものだったのか。
道の先に男が一人、立っている。
コサック帽を被り、毛皮の襟のついたコートを着た、背の高い男である。
彼は独歩に背を向けて、残照に染まる樺の林を眩しそうに眺めて、しかし、まるで独歩の嘆息を引き取るようにして、感慨深げに呟いた。
「アア、秋だ」
そして、何かに気がついたように背後を振り返る。
いよいよ夕日が、世界を染めた。


コメントを残す