月光彩雲

2,159 文字

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 明日が休館日なのをいいことに、独歩と花袋は夕方も早い時間から飲みに繰り出していた。小さいながらも週末ともなればそこそこ賑わう駅前商店街、その通りを一本入ったところにある昔ながらの赤ちょうちんに二人で腰を落ち着けたのが、たしか午後六時過ぎ。昔話から最近の書評、館内での転生文豪たちの動向までひととおり話が弾んだせいで、時間を忘れて酒を過ごしてしまった自覚はあったが、楽しかったのだから仕方がない。大勢で飲むのも好ましいが、たまにはこうして気の置けない友人と二人きりで飲むのもいい。独歩の古い友人は昔から酒に弱く、こんな風に外で飲む機会はそうあることではなかったけれど。
 話の切れ目にふわふわした頭のまま手洗いに立って、用を足しながらふと帰りの足のことを思い出した。そういえば、そろそろ急がなければならない時間かもしれない。座敷に戻ってみるとちょっと目を離した隙に、さっきまで大ジョッキを煽っていたはずの友は赤い顔してテーブルに懐いていた。
「おい花袋、起きろ。そろそろバスなくなるかもだぞ」
「んー……? ……いま、なんじだ?」
「ええっと」
 あいにくと時計を身につけていない。カウンターの奥で背広の会社員相手に焼き鳥を焼いている大将に大声で尋ねると、店内の喧噪をものともしない野太い声で「十時過ぎたところだよ」といらえがあった。
「十時? えっ、もう過ぎた? ……あー、やっちまった」
 我らが仮宿たる帝國図書館行きの最終バスは午後十時発。もうどうやったって間に合わない。日の本一の蔵書数を誇る帝國図書館はその敷地の広大さ故に随分辺鄙なところに建てられているので、歩くとしたら一時間はかかる。
「花袋、おい、花袋ってば」
「うー……」
「帰るぞー、起きろ」
「おー……」
 でくの坊みたいな返事しかしない相方をほっぽって先に会計を済ませる。戻ってくる間にそれでもいくらか目が覚めたようで、花袋は眠たげな目をしつつも自分でコートに袖を通していた。
 まいどっ、と例の野太い声に背中を押されて外に出てみると、寒いのは寒いのだがアルコールが回っているせいかそれほど辛くはない。これなら一時間、なんとか歩けそうだ。
「はあー、冬だ」
 紺色のマフラーに口元まで埋めた花袋が、吐き出した自分の息が真白くけぶるのを見て益体もないことを呟いた。
「あんた、まだ酔ってるな」
「すっげー飲んだんだもん」
「すっげー、って、チューハイしか飲んでなかったくせにな」
「三杯も飲んだ」
「四時間で三杯だろーが。……相変わらずだなあ、あんたは」
「生まれ変わったら少しは強くなるかと思ったが、そう簡単にはいかないもんだな」
 シャッターの閉まった商店街を抜け、いくらか車通りの多い国道を渡る。住宅街の脇を通り中学校の前を過ぎ、ようやく道のりの半分も来ると、徐々に建物が少なくなる。民家の灯りが減って、街灯だけがぽつぽつと道路の両側を照らしている。車がめっきり通らなくなった国道を火の用心の消防車がゆっくりと通り過ぎてゆく。遠ざかるにつれて下がっていくサイレンの音がどうしても物悲しく聞こえた。それに聞き入るように、二人の間から言葉が消える。
 どちらも口を開かないまま、道はやがてゆるやかに上り坂へと変わった。

 ようやく酔いも覚めたと見えた花袋が、両手をポケットに突っ込んで「寒いわ、流石に」とぼやき始め、独歩自身もまた手の先が悴んでどうにも堪らなくなった頃、緩いカーブの向こうに緑とオレンジの看板が見えてくる。図書館から一番近いコンビニだ。それでも歩いて二十分以上かかるため「もう少し近くにあればいいのに」と文句を垂れつつも文豪らが足繁く通う、食品から雑誌から簡単な日用品まで揃う便利店。今の彼らにとっては、さながら砂漠のオアシスのような。
 何も言わずに目配せしあって、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のごとく引き寄せられる。店内に足を踏み入れた瞬間に感じる、ほっと溜息を吐きたくなるような暖房の温風と、同時に鼻を擽った温かい出汁の香り。
 結局二人して向かったのはレジ横のスペースで、たまごとだいこんを一つずつ、一番小さいカップに入れて貰った。
「つゆ多めで。からしはいりません」
 花袋の注文に店員が真面目な顔してお玉に一杯、つゆを掬って入れてくれた。
 店から出てまたぞろ歩き出しながら、ビニール袋からカップを取り出して、プラスチックの蓋をぱかりと開ける。ほわ、と白い湯気と優しい匂いが立ち上る。
「はんぶんこな」
「おう」
 ふたつっきりの具を箸の先でそれぞれ半分に割って、交代交代で食べることにする。
「あふい」
「火傷すんなよ」
「でもんまい」
「……おい、あんたつゆ飲み過ぎだぞ」
 カップに残ったつゆを手を温めながら交代で飲み干しながら歩いて行くと、気がつけばもう図書館の正門が見えている。
「たまには歩いて帰るのもいいだろ」
 まるで自分の手柄みたいに花袋が偉そうな顔して振り返るので、安直に頷いてやるのも癪な気がして黙って背中を蹴り上げた。
「あいた!?」
「前見て歩けよ、転ぶぞ」
「お前が転ばせようとしてんだろ!」
 蹈鞴を踏んで慌てて前を向いた花袋には、だからきっとこのにやけた口元は見られていないはずだ。
 ——ああ、いい夜だとも。たまにはと言わず、毎回でも歩いて帰ったっていいくらいに。

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