嵐は前触れもなくやってくる。
そう、今日がたとえ十二月三十一日、大晦日の朝であろうとも。
「おうおう田山! ここで会ったが百年目、今日こそどっちが本当の自然主義文学か決着をつけようぜ!」
文豪寮二階、共用洗面所の冷たい水で顔を洗っていた花袋は、突然横からかかけられた声に慌てることもなく、タオルでゆっくりと顔を拭ってからうろんな目を向けた。
「……岩野お前……朝っぱらからほんっと元気な奴だな」
文豪たちの朝は遅い。洗面所を含めあたりには二人の他に人気はなく、上ったばかりの朝日が差し込む窓の外では長閑に雀が鳴いていた。端的に静かである。そこにきんと耳に突き刺さるような大声が響いているのが、なんとも場違いだった。
百年目どころか、岩野が転生してからというもの、三日に一度、あるいはそれ以上の頻度で交わされるやりとりである。最初こそいちいち言い返していた花袋もさすがに慣れた。できれば岩野にも慣れてほしいものだが、この男、一向に飽きる様子がない。今も、眠たげに相手する花袋に対してシュッシュッとシャドウボクシングを繰り出しながら、独自の理論を展開する。
「なんだぁ? そういうお前は元気がねえな!! そんなんじゃあ、やっぱりお前なんかに自然主義の旗手は無理ってことよ!」
「はあ? なんでそうなる!?」
これだ。このやり口で毎回なんだかんだと乗せられて口論に発展している。花袋だって、できれば朝からこんなくだらないことで気力を消耗したくはないのだが、自分の文学を槍玉に挙げられるとそうも言っていられない。首に掛けたタオルを握りしめ、俄に反論を試みる。
「お? 今朝もやってるなお二人さん」
と、そこに第三者の声が混じった。おはよう、と挨拶するのは、シャツとスラックスをビシッと身にまとった、だが普段よりはややぼやけた顔の国木田独歩だ。手にはタオルを持っているから、彼も顔を洗いに来たのだろう。脇によけて蛇口を譲りざま、花袋は渡りに船と親友に助けを求めた。
「独歩! なあ、助けてくれよ! 朝から難癖つけられちまって困ってんだ」
「なんだ、二対一か? いいぜ、オレはそれでも! なんつったって、オレは神、だからな!!」
岩野は相変わらずこの調子だ。頭を抱えたくなる。岩野の毒舌は深く考えての発言ではないため、実際には大した論客ではないのだが、花袋は自分の口下手を自覚していた。文章ならともかく、自分の考えをすらすらとその場で口に出すのが苦手である。反対に、それを最も得意とするのが、彼、独歩だった。
顔を洗い終えてもしばらく無言でいた独歩は、口元を覆っていたタオルをよけると、ようやく口を開く。
「いや、俺もそろそろあんたらは決着をつけるべきだと思うぜ」
それは、花袋が期待していたのとは全く違う話の進み方だった。
「は、え?! 独歩!?」
「おお、お前案外話のわかる奴だな、国木田」
いわば支持者を得たような形の岩野はますます上機嫌に独歩の肩をたたいている。それを軽くいなし、独歩は二人を促して廊下へと出た。
「勝負の方法は……そうだな。朝飯食い終わったら俺の部屋に集合でどうだ」
「わかった!! やい田山、絶対逃げるんじゃねえぞ!」
「おー……」
だだだっ、と来たときと同様に唐突に去って行く後ろ姿を見送って、花袋は途方に暮れたような声を出した。横目でちらりと親友の方を伺うと、彼はわかっているとばかりに目を合わせてくる。
「まあ独歩さんに任せておきなさいって」
「本当に大丈夫なのかよ……」
□
朝食後、早速集まった二人を前にして、独歩は真面目くさった顔でこう切り出した。
「自然主義の旗手を名乗るには他の文学についてもそれなりに明るくなくてはならない。違うか?」
「その通りだ!」
「そうかあ……?」
元気よく返事する岩野に対して、懐疑的な応えを返すのはもちろん花袋である。なにせ、久しぶりに入った独歩の部屋は、なんというか、そう——
「ということで、まずはここにある本をどちらが正確に、素早く図書館の書架に戻せるかで勝負しようじゃないか」
「朝飯前よ!!」
「もう食っちまったけど……ってそうじゃなくて」
律儀に突っ込みを入れる花袋の目の前に広がるのは、うずたかく積まれた本の山。一体いつからため込んでいたのか、到底一度や二度の貸し出しで持って帰れる量ではない。というか、絶対に一人あたりの貸し出し冊数上限を超えている。どう言って受付を通ったのだか……いや、この男のことだ、適当なことを言ってまんまと部屋まで持ち帰ってきたのだろう。
かろうじて本に埋もれることのなかった椅子を引き出してそこに足を組んで座った独歩は、やる気に腕まくりしている岩野を見て満足そうにうんうん頷いている。
「それじゃ俺はここでどっちが何冊持ってったかしっかりカウントしとくから、心置きなく勝負してくれ」
「助かるぜ国木田!」
「いやなあ独歩それって」
「それでは用意! ……始め!」
なし崩しに始められた勝負は、ものの一時間足らずで決着が付いた。
「岩野が二十一冊、花袋が三十五冊」
「ちっくしょー、負けた!」
「まあ俺の方がここ長いからなあ、一応」
床に膝をついて大げさに嘆いている岩野は気づいていないのだろうか。
「……計五十六冊。うんうん、返却督促の数字とも一致してるな」
机で正の字を書いた紙と「督促状」と付いた紙片とを見比べて満足そうにしている独歩の姿は、まさに策士そのものである。親友の不幸をまんまと利用しやがって。こちらは寮と図書館を大量の本を持って何往復もさせられてへとへとだというのに。
「このままでは終われない! もう一勝負だ、田山!」
落ち込むだけ落ち込むとすぐに回復した岩野はその点、元気そのものだった。ぴょんと立ち上がるとまたこちらを指さして宣戦布告する。
「ええー……?」
もう十分だという気持ちを込めた花袋の抗議の声は、岩野にも、独歩にもすっかりと無視された。
「そうだな……じゃ、他んとこでも行ってみるか」
ふむ、と一度思案した独歩は、まるで初めからアテでもあったかのように、迷いなく部屋を出るとある部屋へ歩き出した。
□
「えっと、手伝……じゃなくて、勝負?」
のんびりと自室の片付けをしていたらしき有島は、突然の来客にも慌てずにソファを勧めて茶まで出してくれた。同じ広さであるはずなのに、独歩の部屋とはまるで大違いである。片付けが必要とも思われない。
きょろきょろと興味深げに室内を見渡しているのは岩野も同じだった。こいつも有島とは前世少なからずの縁があるらしい。よそ事に興味が移っている間は温和しくしてくれるのでありがたい。
「そ。なんでもいいぜ。年末で何かと人手がいるだろ」
出された茶を旨そうに口に運んでいる独歩こそ、有島とはそれなりの付き合いがあるようだった。もっとも彼の場合は、図書館にいるどんな人物ともそれなり以上の付き合いをさらりとこなす活動家である。特筆すべきはむしろ、彼を「独歩さん」と呼んで懐く白樺の眠り王子のほうだろう。
今も、彼はせっかく部屋を訪れたこの先輩作家になにかできることはないかと——実際にはこちらがなにかできることがないか探しているのだが——目を斜め上にさまよわせて考えている。
「僕のところはそうでもないんだけど……。あ、そうだ、それじゃあ——」
有島に告げられて次に訪れた場所は、文豪食堂の奥に位置する調理場である。普段は雇いの飯炊きがいて三食を供してくれるが、今日から三が日の間はお休みだ。今朝の食事も昨日の作り置きを温めて食べるようになっていた。
それでは今、そこが冷え切っているかといえば決してそんなことはなく、逆に煮炊きの火で暑いくらいだった。三口ある業務用コンロすべてで鍋が煮え、大きなオーブンも、流し台も、まな板の上も所狭しと食材やら食器やらであふれている。
取り仕切っているのはやはりというか、志賀直哉、黒いエプロンが妙に様になっている。手に持っているお玉すらも不釣り合いを通り越してお似合いだ。
「いいのか? そりゃ助かるぜ! お節の仕込みが追いつかなくてよ」
示された勝手口近くのかごには、立派な栗が山となって剥かれるのを待っている。その横にはサツマイモも積まれているから、「お節」の単語と併せてそれらが何の材料かは推測が容易だった。
「栗きんとん、甘露煮にするところから作るのか? そりゃあ大変だ」
「秋にとれたのをせっかくとっといたのに皮剥きもまだでさ。みんな他の仕事で忙しいし」
「よろしくね、田山さん、岩野さん!」
そう声を掛けてきたのは、洗い物をする高村でなく、並んで野菜を切っている宮沢と新見でなく、オーブンの中の様子を見る小林でなく、外のカウンターに回りこんで小皿にちょんちょんと乗ったお節のできあがりを箸でつまんでいる武者小路だった。
「えーと……お前は手伝わないのか?」
花袋が控えめに尋ねたが、武者小路は悪びれる様子もなくにこにこしている。
「そうしたいんだけどねえ」
「あいつは致命的に役に立たないから味見係だ。有島も一応誘ったんだけどな」
「見てるだけは申し訳ないと思う性質だろうな、あっちは」
相づちを打った独歩は、仕切り直すようにパン、と一つ両手を打った。あちこちから漂う良い匂いによだれを垂らさんばかりだった岩野がピンと背筋を伸ばして注目する。
「ということで、だ。自然主義の旗手たるもの仲間の食生活にも気を配れるくらいの余裕が大事! 第二ラウンドはどちらがより多く栗を剥けるか!」
「その建前必要か?」
「うおー!! 今度こそオレが勝つ!!」
思わず突っ込んだが、岩野の様子を見ているとなんだかどうでもよくなってくる。二人の後ろで、いつの間にか独歩が両手にフライパンとしゃもじを持って構えていた。
「それでは両者、用意、……始め!」
コン、と間抜けた音が、調理場の雑音に一つ加わった。
□
栗剥き競争の結果は引き分けに終わった。後ろで審判役という名の傍観を決め込んでいた独歩がそういうのだから間違いない、はずである。
「いやー、まさか同点とはなー」
食堂を出て、なんとなく談話室の方向へ向かって歩いている途中である。どことなく空っとぼけた口調に花袋の目つきはうろんになった。こちらが必死こいて栗の皮を剥いている間、彼は他の文豪との雑談がずいぶん盛り上がっていたようだが。
「独歩お前、ほんっとにちゃんと数えてたか? なんか棒読みじゃないか?」
気にかかりながらもそこまで深く追求しないのは、あの後志賀が「栗剥きのお礼に」と昼食を振る舞ってくれたからに他ならない。手が込んでなくて悪いな、なんて謙遜がかえって厭味なのではないかと思われるような完璧な明太子クリームパスタのランチセット(サラダ・スープ付き)にありつければ、手伝った甲斐もあるというもの。それにどうせ、できあがった栗きんとんも年明けには自分の腹に収まるのだ。
「そうだぜ、だから小さいことでぐちぐち言うなよ花袋」
「だとしてもそれをお前が言うなよ」
なお、岩野はここまでの二人のやりとりなど意に介さない様子で、全力で悔しがっていた。ここまですがすがしい自己中心っぷりには、なんとなしに羨ましいと思う花袋である。
「悔しい! 悔しい! なんでオレがこんなただの匂いフェチ野郎に勝てないんだ!」
「おい、聞き捨てならないことを」
ぴくり、と花袋の眉間に皺が寄る。どんなに腹がくちくなっていても、それはいわゆる禁句、地雷、言ってはならない一言の類い——
「おーいお前らー」
悪くなりかけた空気を散らしたのは、またしても第三者の声。もちろん、今度は独歩のものではあり得ない。
「ん? ……あれ、幸田さんだ。あんなとこでなにやってんだ?」
通り過ぎるところだった階段の踊り場で、脚立を担いだ幸田露伴が手を上げている。実は、その姿を彼らはつい先ほども目にしたばかりだ。
「さっき調理場に魚差し入れに来てたよな。井伏さんと釣ったとかって」
午前中の釣り竿を午後には脚立に持ち替えて、手には魚籠の代わりにバケツと雑巾。とくれば、さすがに彼が何をしているのかは自明だ。
足を止めた三人に、幸田は危機として階段を降りて近寄ってきた。
「田山と岩野、勝負してるんだって? じゃあ、ここでもちょっと手……じゃないな、競っていかないか?」
「お安いご用ですよ」
「なんでお前が請け合うんだよ」
斡旋業者かなにかのように独歩が請け負うのに、一応突っ込みを入れる。が、この突っ込み、今日一日役に立ったことが一度もない。どうせ今回も同じことだとわかっていながら、花袋は自分の役割を果たしたまでだ。
「いやな、図書館のほうは業者の人が入ってくれて綺麗に掃除してくれてるんだが、寮のほうはそうじゃないだろ? 新年を迎えるにあたってこれじゃあちょっとな。窓拭きは俺がだいたい済ませたから、あとは廊下の拭き掃除だけなんだ」
「なるほど。……聞いたな花袋、岩野。自然主義の旗手たるもの、住居の清潔にも気を使えなくては以下略」
「略した!」
「いーからさっさと始めようぜ!」
腕をぶんぶん回してやる気を見せる岩野に、あきれ気味の花袋。相変わらずの食えない笑みを浮かべている独歩。三者三様の表情を見渡して、幸田は持っていた雑巾を三枚、差し出した。
「いやあ、助かる。三人も人手があればすぐだな」
「え?」
「三、人?」
□
「ふ」
「……」
「ふふ、ふ」
「……」
「ふは、ふはははは……勝った……!! やっぱりオレが! 神!!」
三階建ての文豪寮、その長い廊下を各自三往復ずつ。それを最初にやり終えた岩野がなぜか一番元気だった。後には、床に尻をつくなり、うなだれるなりして息を荒げる屍が二つ。
「ぜ、は、……つ、疲れた……っ」
「はあ、は、なんで、俺まで」
おそらく、この中で最も体力がないのは独歩だろう。午前中は傍観者だったとはいえ、今日一ハードな仕事に巻き込まれたのは不運だった。気休めに背中をさすってやるが、水でも持ってきてやった方がいいだろうか。
三人の使った雑巾をバケツで洗い清めながら、幸田は上機嫌に笑っている。
「いやあ、助かった助かった。見違えるほどピカピカだな。さすが自然主義」
「幸田さんも褒め方が雑です」
「まあまあ。さっき釣ったばかりのヤマメ、お前たちの膳には一尾多く乗るよう言っとくから」
すると、勝利の余韻に酔いしれていた岩野が急に幸田に詰め寄った。といっても、親と子ほどの身長差である。加えてその内容も。
「俺が一番だろ!?」
「はいはい、岩野は二尾追加、言っとくよ」
途端、機嫌を取り戻すのだから調子が良い。
「やったぜ! 夕飯が楽しみだ!! じゃ、それまで俺はひとっ風呂浴びてくっかな〜!」
朝からあれだけ勝負だなんだと騒いでいた岩野が、ヤマメ二尾であっさりと退場する。今までの経緯を知らないせいか幸田も暢気に「夕食楽しみにしてろよ」などと言い置いて去ってしまった。残された二人は、床に腰をつけたままぽかんとその背中を見送ることしかできない。
「行っちまった」
「自分が勝ったら満足……ガキかよ」
「はは。わかりやすくていいじゃないか」
ようやく調子を取り戻してきたらしい独歩が、先に立ち上がる。差し出された手を借りて、花袋も起き上がった。
窓からは既に西日が差し込む時間である。冬至は過ぎたとはいえ、日はまだまだ短い。もう間もなく夜が来るだろう。年の瀬が暮れてゆく。
「でもまた明日になったら絡んでくるんだろうな」
手で服を払って、ぐんとのびを一つ。歩き出した花袋を独歩が追って、隣に並ぶ。
「こりゃ来年も退屈しないな」
「人ごとだと思って」
脇腹を小突いた肘は、すげなくガードされた。代わりとばかりに、肩に回される腕。横からコツンと頭を寄せられる。
「まあまあ。また付き合ってやるから」
「……たのむぜ、ほんと」
腕を回し返して、肩を組んで、二人は歩き出した。
たのむぜ、ほんと、と花袋は胸の内だけで繰り返す。
来年も、その次も、ずっとずっと。たのむぜ、ほんと。


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