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 強力な侵蝕者の巣食う新たな有碍書が発見されて、最近では滅多に会派に呼ばれることのなかった独歩が再び潜書に向かうようになった。従って彼が耗弱して戻ってくる頻度も増えた。
 花袋は彼の練度が大分上がってから図書館へ招聘された部類なので、独歩のそんな姿は今まで見たことがなかった。特定有碍書への奇襲作戦の時など、何度も潜書に駆り出されて疲労で不機嫌になっているのは何度か目にしたことがあるけれど……。
 今、独歩は補修室の裏のベッドでぼんやりと外を眺めている。今日はもうゆっくり休んでくれとの指示で、調速機も使われていない。司書は流石によくわかっていた。時計の針を巻き戻すように一瞬で補修を完了させてしまう道具などを使ったら、独歩は自分の体調も疲労も顧みずにまたどこへなり飛んで行ってしまうだろう。もっとも、そうでなくとも少し回復しただけですぐ散歩だなんだとベッドを飛び出してしまうから、見張りは必要だ。この間などは少し目を離した隙に中庭の池で釣り糸を垂れていた。
「松魚が釣れたら刺身にしよう」
「馬鹿野郎、池でそんなのが釣れるもんか」
 そう言って無理矢理引っ張って補修室に戻したのも記憶に新しい。以来、花袋は独歩が耗弱した際には必ず付き添うようになった。
 それにしても今日は手ひどくやられたらしい。喪失の状態で運ばれてきた独歩は流石にうろうろする気力も無いようで、意識が戻ってからはずっと外の風景を見て過ごしている。一番窓際の明るいベッドで、窓はほんの少し開けてあった。春の日差しに透けたレースのカーテンが、風が入る度ふわりと靡いて柔らかく光をばらまく。それが独歩の首やら、手やらに差しかかりただでさえ白い肌をさらに白く見せるので、そのたびに息が詰まりそうになる。花袋は立ち上がって窓辺に回り、細く開いていたそれを閉めた。春とは言えまだ寒いから、と誰にともなく言い訳して。
 その時独歩が、まるで今初めて気がついたかのように名を呼んだ。実際、今になってようやく花袋がここにいることを認識したのだろう。補修がすすんでいる証拠だ。
「いたのか」
「いたよ。ずっと」
「そうか……」
 しかしその表情はまだどこか茫洋とおぼつかない。その瞳は花袋を映しているようでそうではなく、いや、彼は確かに自分を見ているはずで——
 胸のざわめきを気のせいだと宥めつつ元の椅子に戻ると、彼の視線がふと別のものに逸らされたのを感じた。視線の先を追うと、一輪の花が花瓶に挿しておいてあるのに行き当たる。きっと補修の慰みにと誰かが摘んできたのだろう、この春にどこでも見つかるような、なんの変哲も無い花だった。
「美しいな」
 と、なんの脈絡もなく独歩が話し出すので、花袋は曖昧に相づちを打った。
「ああ……」
「なんで気がつかなかったんだろう。美しいじゃないか——」
 しかし独歩は相槌の有無など気にもせずに、浮かされたように言葉を継ぐ。
「しべも、がくも、花も、その形、色、すべてが、まるで神様が作ったみたいに美しいのに、なんで俺は《こうなるまで》それに気がつかないんだろうな……」
 ——玉蕊、雲蕚、嫩色、艶葩、その形、その色、ただ漫然と偶目一過するのみにて、嘗てその極を極め、その精を精ぶるの事をせざりき。
 花袋は漫然とした気持ちで相槌を打った先の自分を猛烈に悔いた。うっとりと花を見て歌うように言葉を紡ぐ彼を、今はただ恐ろしい化け物でも目にしたような気分で見つめることしかできない。ああ。
 まだなにか言おうとしている独歩を、もう聞いていられなくて花袋は、強引に胸に抱き寄せその両目を手で覆った。腕の中から、無邪気な声が名を呼んでくる。
「どうした花袋」
「……花だ。あれはただの花だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そうだろうか……」
「そうだ」
 ——何も見るな。何も言うな。何も感じるな。何も、思い出すな。
 まだ十分に弱ったままの精神が、すうと眠りに落ちてゆく気配がする。それでもしばらくの間、花袋は彼を胸に抱いていた。
 今だけだ、こんなのは今だけだ。いずれ回復すれば何もかも夢の彼方に遠ざかる。いつものように紅露の時代に文句を垂れて、新しい文学論をぶてばいい。それが幸福だ、安寧だ、なによりの平穏だ。

 それが誰にとってのさいわいであるのか。本当は花袋だって気付いているのだ。


(第9回花独ワンドロ参加作)

作中引用:『病牀録』(国木田独歩)

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