No.9 瞬きの隙に(雷鉢)
可愛い罵倒/人目を盗んで/連れ込む
午前最後の実技の授業が終わり、校庭から食堂へ向かう道すがらのことである。
三郎は、雷蔵の髷を模したかもじの毛先をしきりに気にしながら歩いている。授業中、八左ヱ門の投げた微塵が絡まったせいだ。そのせいで授業に身が入らなくなった三郎は簡単に八左ヱ門に負けてしまうし、己の手番が終わった後も、必死になってかもじの手入ればかりしていた。
そして、それは今も同じだ。
肩から前に回した毛先を、指でいじくり、いじくり歩く。爪の先で毛先をつまんで引っ張ったかと思うと、指を差し込んでまたほぐす。もう一度引っ張る。そしてまたほぐす。その繰り返し。そんなだから、クラスのみんなはどんどん先に行ってしまって、三郎と雷蔵は列の最後尾を遅れがちについていく。
「まだ気になるの?」
「うーん……なんかまだ直ってない気がする」
「きれいに直ってるけどな」
「いや、この毛束の跳ね具合がさ。雷蔵の髪はもっとこう、……あーもう、八左ヱ門のやつ。雷蔵のかもじになんてことを……」
八左ヱ門への文句を口にしつつ、また毛先をいじる。さっきからかもじばかりに気を取られ、雷蔵の方を見もしない三郎は、ふうん、そっか、と相槌を打つ相方の機嫌がずっと右肩下がりであることに気付いていない。
そんなだから、曲がり角で突然立ち止まった雷蔵に、いともたやすく物陰に連れ込まれてしまうのだ。
「ら、雷蔵さん?」
戸惑いの声を上げる三郎は、肩を土壁に押しつけられてなお、かもじに添えた手を離さない。
ああそう、それならべつに、それでもいいや。
心の中で呟いて、雷蔵は真顔で三郎の口に口を近づけた。
「え? ちょっと、まっ——」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、重なって離れてゆく唇。白昼堂々、人目を盗んで行われた所業に、三郎は慌てて両手で唇を押さえるが、今更もう遅い。
「な、……な、」
目を白黒させて、わなわなと体を震わせる三郎。ふに、とやわらかな感触が確かにした。したはずなのに、気付いたころには、雷蔵はもう三郎のことなど見ていない。
「おーい、雷蔵! 三郎! どこだー!」
八左ヱ門の声が聞こえる。雷蔵は極力いつもの声の調子を思い出して、曲がり角から顔を出して叫ぶ。
「今行くー!」
慌てる三郎を見たときには確かに下げた溜飲も、今はもうどうでもよくて、ただ自分の行動を後悔するばかり。今更かっかと熱を持ち始めた顔を三郎に見せるわけも行かず、雷蔵は無心で歩き出す。
「な……なに、なにいまの!」
「……知らない」
自分の何が雷蔵の機嫌を損ねていたのか、何が雷蔵を駆り立てたのか。一つも想像しないで、三郎は雷蔵の後を追う。
「ねえ、雷蔵、ねえってば!」
「……そんなにかもじが好きなら、かもじと口吸いでもしてろ、ばか」
雷蔵は歩を早める。ずいぶん可愛い罵倒だという自覚があるから、三郎にこんな言葉は絶対に聞かせられない。
口を一文字に引き結んで、怖い顔して歩いてくる雷蔵を見て、八左ヱ門が「また喧嘩したのか」と勘違いするまで、あと少し。


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