歯痛の告白

3,265 文字

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 ある日の放課後、それは長屋の自室で宿題を片付けているときであった。秋の終わりの、日に日に寒さが厳しくなる頃には珍しく、西日が柔らかく注ぐ佳い日のことである。
 そのような佳き日であったから、実は、と神妙な面持ちで三郎が切り出したときには、雷蔵は、ついにこの時が来てしまったのかと思わず正座して背筋を正した。
「前から言おう言おうと思っていて、きみに言っていなかったことがあるんだ」
「うん」
 雷蔵はごくりと喉を鳴らした。まさか、もしや、これってやっぱり。
「実は、最近歯が痛い」
「……なんだ」
 拍子抜けしてしまった。てっきり告白でもされるのかと思った。そんなことを考えていた雷蔵はぽっと赤面した。三郎にしてみれば意味不明もいいところである。
「なんだ、とはなんですか。私は今とても困っているのに」
 不本意な表情の三郎を、雷蔵は照れ隠しの意味も含め、しっしと手を払って医務室に向かわせた。
「なんだ」
 一人っきりになった部屋で、雷蔵はほんのり熱を持った頬をはたはたと仰ぎながら、床にごろんと寝転がる。
「なあんだ」
 ごろごろと転がっていると、不意に廊下からとたとたと軽い足音がした。その音の調子からいずれか一年生に違いないと思い体を起こすのと、雷蔵先輩、と丁寧に声がかかったのは同時。
「おや、その声は」
「はい、一年は組の乱太郎です。ええと、善法寺伊作先輩がお呼びなので、保健室までお願いできますか」
 わかった、と返事をして、雷蔵はさっと立ち上がる。さっき追い払った相方のことに違いなかった。

 乱太郎と雷蔵が保健室までやってくると、部屋の中から言い合う声がしている。
「ぜえっったい嫌です!」
「そんなこと言ったって、抜かなきゃどうにもならないよ?」
 言い合うと言うより、一方的に三郎が毛を逆立てているのに対し、六年の保健委員長善法寺伊作は、穏やかな声音で諭すようであった。
(さては三郎のやつ、むし歯を抜くのが嫌だと駄々をこねているな。それで先輩が、助け舟にと自分を呼んだのか)
 雷蔵は勝手に合点した。
 失礼します、と部屋の戸を開けると、半泣きの三郎が、
「らいぞうっ」
と叫んで飛びついてきたので、雷蔵はさっきの今で少し動揺する。いや、もちろん、僕が一人で動揺しているだけなのだけれど、などと内心言い訳をしながら。
「駄々をこねないの、三郎。どうせ君、委員会で甘いものばっかり食べてたせいなんだろう、むし歯になんかなって。下級生に示しがつかないよ」
 ねえ、と乱太郎に同意を求めると、乱太郎が何かを言う前に三郎が横から喚いた。
「違う! 私は別に歯を抜きたくないと駄々をこねているんじゃなくて、そもそも、むし歯などでは……!」
 雷蔵が加わったことで保健室の中は騒然となった。
 どこまでも発展しそうな騒ぎを止めたのは、部屋の奥に座してことの成り行きを見守っていた、新野洋一保健教諭である。
「まあ落ち着いて。二人とも座りなさい」
「乱太郎は今日は当番、もういいからねえ」
 伊作が一人場違いなほどのほほんと、おいてけぼりの一年生に声をかけた。

「ちし」
 雷蔵は聞き返した。
 新野を囲むように雷蔵、三郎、そして伊作が座っている。伊作は普段通り、いや普段よりもなんだかごきげんなようで、いつもの倍はにこにこしている。笑顔の安売りである。翻って三郎は、そんな伊作を親の敵でも見るような顔をしてねめつけているが、雷蔵の影にすっぽり隠れるようにしているのでは、まったく子猫か子犬の威嚇のように頼りなかった。
 新野は三郎にも伊作にも一切かまわずに——さすが忍術学園の保健医である、と雷蔵は思った——、雷蔵の問に答えた。
「智歯、つまり、親知らずのことです」
「三郎に親知らずが生えて、それが痛みの原因だから抜く、ということですか」
「そうです」
「親知らずとは十四でもう生えるものなのですか」
「個人差がありますからね。確かに三郎くんは早いほうですが、別に異常というわけではありませんよ」
 それならなんの問題もないではないか。
 雷蔵は聞き分けの無い子どもを叱るような声を作って、三郎の名を呼んだ。
 たまらないのは三郎である。
「待って雷蔵! さっきも言ったようにね、私は歯を抜きたくないと言ってるわけではない! その歯を抜くのを、伊作先輩がすると仰っているから嫌だと言っているんだ!」
「ひどい言い草だなあ。僕だってうまくやるよ」
 伊作はすかさず、手に持っていた鉗子をカチカチと鳴らして見せた。それに加えて笑顔である。さすがの雷蔵も恐ろしい、と思わずには居られない。
「うまくやるって、一体なんの根拠が!」
「僕を信じて」
「信じられませんって!」
 先程の言い合いの原因はこれであったか。一周して戻ってきたところに、雷蔵はすかさず割り込んだ。
「あのう」
「なんだい」
「伊作先輩は人の歯を抜いたご経験がお有りで?」
「千里の道も一歩からと言うだろう?」
「つまり、経験なしと」
「やっぱり!」
 大口開けて叫んだせいで、歯が痛んだらしい。うっと頬を抑えて小さくなった三郎の姿は、雷蔵の同情を引いた。これは三郎の味方につかざるをえない。
 どうか諦めてはいただけませんか、と雷蔵は伊作に懇願した。
「……仕方がないか」
 伊作がしゅんと肩を落としたので、雷蔵の、ひいては三郎の思いは通じたと見てよいか。
「それで先輩、どうして私をお呼びになったんでしょう」
「三郎の体を押さえつけてもらうのを手伝ってもらおうと思って。君がいればあれもおとなしくなると思ったんだけどなあ」
 そうか見誤ったなあ、と伊作は手に持っていた鉗子を名残惜しそうな眼差しで眺めている。
「伊作くん。あんまり後輩を怖がらせるものじゃありません。それに患者を怯えさせるなどというのはもってのほかですよ」
「はあい、先生。申し訳ありません」
 決着がついたのを見計らった新野が、すかさず伊作を叱った。
 伊作はしおらしく謝っていたが、その光景は雷蔵の目には物珍しく映った。未知の経験を目の前にして気が高ぶったとしても、そんな初歩的な心構えを違えるようなことを、あの伊作がするだろうかと。
 ぱん、と新野が手を叩いたので、雷蔵は我に返った。
「それじゃあ次の休みの日に抜きましょう。授業のない日のほうがよろしいでしょうから。雷蔵くん、その時は手伝ってくれますね」
「もちろんです」
 一も二もなく雷蔵は頷いた。しかし意外にも、それを不服としたのは三郎であった。
「雷蔵、別に、新野先生が施術されるのならば私は一人で大丈夫だよ」
「まあだ、そんなことを言うんだ」
 伊作が一度は手放したはずの鉗子を再びちらつかせると、ひっと息を飲んで三郎はあっけなく雷蔵にすがりついた。
「やっぱり、ついててくれるかい」
「もちろんだよ」
 見れば、伊作はにやにやと笑っていた。うまく言ったと言わんばかりに。

 ——だってね、あいつ。
 その後伊作が、雷蔵だけにこっそりと種明かししてくれたには、こういうことである。
 この時代、歯を抜くのには尋常ならざる苦痛がつきものだった。麻酔など存在しない。力まかせに鉗子で引っこ抜くだけの原始的なものだ。大の大人でも失神する痛みを伴うそれを、三郎はなんの気負いもなく一人で大丈夫と抜かしたという。
 有り得そうなことだ。三郎は人に弱みを見せることをよしとしないから。そしてそれははったりでもなんでもなく、三郎はうめき声ひとつ上げずそれをやってのけるのだろう。
 ——でも本当は、怖くないはずがないんだよね。君についていて欲しかったに決まってる。
 そう言った伊作は、優しい保健委員会委員長の顔をしていた。
 歯が痛い、と三郎は言った。
 すげなく追い払ってしまったが、思えば痛みや苦痛に関してのことで三郎が誰かに泣き言を告げたのは、あれが初めてであったかもしれぬ。
 いつもなんでも一人で何とかしようとする三郎が、雷蔵だけに告げたわけとは——。

 秋の佳い日に告げられた言葉は告白には程遠かったけれど、あながち雷蔵の勘違いだけではないのかもしれなかった。

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