——本日午後三時に紀伊半島に上陸した台風ト号は現在本州南の海上を北北西に向かって時速一〇キロメートルで北上しており、間もなく伊豆半島に再上陸するものと見られています。予想では今晩遅くに帝都を直撃する恐れがあり帝都市民におかれましては十分な警戒を怠らず、不要不急の外出は控えるよう——
談話室のただでさえ入りの悪いラジオは、強まる風雨のせいかなかなか電波を拾わなかった。難しい顔をした志賀が神業の指使いでダイヤルとアンテナを弄ってようやく合わせた頃には、もう台風はすぐそこまでやってきている。
「ここ、大丈夫かなあ。飛んでっちゃったりしないかなあ」
さっきからどうも、風が吹くたび軋むような音を発している天井を、ごんを腕にぎゅうと抱いた新見が心配そうに見上げた。徳田と佐藤は真面目な顔で水の備蓄の確認をしている。
「とりあえず風呂桶にいっぱい貯めておいたけど」
「入り口に張り紙は張ったか? 誰かが知らないで入ったら大変だ」
「水風呂だけどね……」
バタバタと出て行く者がいる一方、のんきなのもいる。志賀と一緒にラジオを弄っていた武者小路は、それを脇で見ていた江戸川にこっそりと囁きかけた。
「嵐の夜ってなんだかわくわくしません?」
「傘を差しておけば風で空が飛べるかもしれませんねえ」
「メアリー・ポピンズみたいですね」
ざわざわと落ち着かない談話室を、花袋はそっと後にした。廊下を自室へ向かう間も、窓の外をびゅうびゅうと風が走り抜けている。西洋式の文豪寮には雨戸がなかった。風くらいでは大丈夫と思うが、礫でも飛んできて窓が割れたら大事である。新見の心配もあながち的外れではない。
そんなことを考えながら戻った部屋には明かりがついていた。出る前には消したはずだが、と戸を開けてみれば何のことはない、独歩が来ているのだった。彼らは日頃から用があろうと無かろうとお互いの部屋を勝手に行き来する習慣があって、それを二人とも苦にしていない。誰かには「二人で二部屋使っている」などと揶揄されることもあるのが言い得て妙である。
部屋の中で彼は備え付けのデスクに——椅子ではなく、文字通り机の上に——腰掛けて、花袋がせっかく閉めておいたカーテンをわざわざ開けてまでして、じっと窓の向こうを眺めていた。
花袋はつかの間、その華奢な背中を見つめた。以前にもこんなことがあった気がするし、無かった気もした。ぼんやりしていると独歩の方が花袋に気がついたようだった。ちょっと振り返って、
「おう、どした?」
と不思議そうな顔をする。
花袋はそれには答えずにただ彼の傍に寄って、そのすぐ脇から同じように窓を覗き込んだ。暗い外は見えず、逆に室内灯に反射して独歩の横顔が鏡のように映っていた。なるほど、これでは花袋が扉のところで躊躇していた姿も丸わかりだったろう。
何も言わない花袋の様子を見て、独歩も再び窓の外に視線を戻した。真っ暗で何も見えないと思った外の風景は、目が慣れてくると徐々にその輪郭を露わにしていく。風が鳴るたびに庭の木々は大げさなほどに身を揺らし、激しく梢を鳴らした。墨よりもなお黒い雲が恐ろしいほどの速度で東へ東へと流れていく。葉だか枝だかわからない細かな影が鳥のように縦横無尽に空を飛んでいる。それらが、二人の肩の影の向こうに透けて見えた。
花袋は談話室でのことを話して聞かせた。
「どうして人は、嵐の夜に心を躍らされるんだろうな」
独歩はふむ、と一呼吸置いてからすらすらと答えてみせるのだった。
「人間は変化を好む生き物だからだな」
「どういう意味だ?」
「そのまんまさ。人間は皆変化を求めている。だが大多数は、自ら変化を起こすことをしない。それぞれが社会的立場やら守るべき家族やら、しがらみを抱えているから。だけど心の底では変化を望んでいる。自分のあずかり知らぬところで何かが変わってしまえばいいと思っているのだ」
「嵐が、全部めちゃめちゃしちまっても良いっていうのか?」
「ものの例えだよ」
彼は元来議論好きの男だったので、こういうことを語らせると水を流すがごとくに滑らかにしゃべった。
花袋は彼の形のよい唇がせわしなく動いているのを見守った。
最近よく、花袋にはこういう瞬間があった。なにか、彼から目を離せないような、目が吸い寄せられるような瞬間が。例えばそれは談話室で自分ではない誰かと語らっている姿。書架の本をかたづけるのに腕まくりしたその細い手首。大口開けてカレーを頬張るのにちらりと覗いた、赤い舌。そういうものに自然と目が行ってしまい、慌てて逸らすというのを繰り返している。
そもそもはこいつが、あまりに危なっかしいのがいけないのだ、と花袋は内心で弁明する。潜書の時もそれ以外でも、情報収集のためと称してなにかと危険に突っ込んでいこうとするのを宥めて叱るのは花袋の役割だった。ちょっと目を離した隙にいなくなったりするので、花袋は独歩のことを目で追う癖が付いた。
それが、今ではこうして二人きりの時でさえその癖が抜けないでいるというだけ、そのはずだった。
「アンタだって、変化を望んでいやしないか?」
すぐ近くから聞こえた独歩の声に、花袋は心臓を不自然に跳ねさせ、慌てて距離をとる。そうしてから、花袋はようやく彼の質問について考えを巡らせた。
変化。変化。
それが果たして、嵐とともにやってくるというのならば、もうすぐそこまで迫っているはずだった。望むと望まざるとやってくる変化。
花袋はわざと大げさに首を振って、己の益体もない考えを振り払った。
「俺は、このままでいいかな。せっかくこうして転生したんだ、お前や藤村とまた文学談義ができるんだからさ。昔みたいに」
「昔みたいに、ねえ」
「なんだよ。悪いか?
独歩はなにか含むところのあるような言い方をした。そのわりに、彼は微笑むようにささやかに笑っていた。尻の座りが悪くなって、花袋はつっけんどんに返す。そうすると独歩もようやく、あの人を食ったような、澄ましたような、行儀の悪い笑みを浮かべた。
「保守的なやつめ。せっかく転生したからこそ、だろうに」
花袋も調子を戻して、あえて独歩に反論する。
「仮にお前の言うように、人間は誰しも変化を望んでいるとしてだ。だけどお前は、それをただ待っていはしないだろ」
思わぬ切り返しだったのか、独歩はその花緑青の瞳をきょとんと丸くするが、一転して完爾と笑ってみせる。
「そこに気づくとは……成長したじゃないか、独歩さんの教育の賜物かな?」
ぬかせ、と相槌入れてやれば、彼は、まあ確かに、と続けるのだった。
「確かに、俺は待つのはあんまり得意じゃないからな」
そのときだった。
何の前触れもなく、唐突に、バチン、と危うい音を立てて部屋の灯りが消えた。
花袋の部屋だけでない。廊下も、隣も、上も下も、全部の灯りがいっぺんに、消えた。
きゃあ、だか、わあ、だか、談話室のほうからは悲鳴が上がったようだが、それもはじめの一瞬だけですぐに静寂が戻った。
「停電か」
「そうだな」
二人は暗闇の中確認し合った。
さっきまでと変わったことと言えば部屋の暗さだけなのに、なぜだか大きな音を立てることが憚られ、自然と小声でのやりとりになる。外の風の音ばかりがやたらと耳に付いた。電気が切れた途端、まるで世界から切り離されたように心許なくなって、花袋は何か話題を探した。
「すぐ戻るといいんだけどな」
「蝋燭でもつけるか?」
「どこかにはあったはずだ……たしか、そこの引き出しに」
そこで、不用意に移動しようとしたのがまずかった。
おい、と独歩が慌てた声を出す。花袋の足に何かが引っかかる。あっ、と思う暇もなかった。ガタン、と大きな音を立てて、花袋は何かの上に身を投げ出していた。
何かというのもおこがましい。本来そこは机のある場所で、だが体の下にある温度はそれよりもずっと高いのである。花袋はかろうじて片腕を机について、体全部でのしかかることを防いでいた。逆に花袋の肩口には独歩の手が支えるように添えられている。彼の体を下敷きにしているのだというのは、すぐに知れた。
暗闇の中で、二人はお互いに無言だった。文句の一つでも飛び出しそうなのに、独歩はずっと黙っていた。花袋も、何故かその静寂を壊すことができずにいた。ただその体に触れる体温だけで、お互いがそこにいるのだということを識っていた。
つかの間止んでいた雨が再び降り出したようだった。
風は相変わらず、唸るように吹き荒れている。庭の木々は梢を擦らせてざわざわと耳障りに鳴った。そこに雨粒の音が混じり合って、強弱をつけて建物に吹き付けた。時折割れてしまうのではないかという激しさで窓が大きな音を立てた。
それから、一体どのくらいの時間がたっただろう。
閃光。
稲光が一瞬、空を照らす。光るだけで、音は聞こえない。
暗闇を裂くように、部屋の中まで照らされる。
その瞬間に、花袋は独歩が、自分を見ていることに気がついた。自分が気づいたのと同時に、彼も気づいたはずだ。何も見えない部屋の中、彼らは向き合って見えないはずの相手をずっと見つめていた。
光は一瞬のこと、再び闇に包まれた室内で、しかし花袋は金縛りにあった様に視線を動かすことができない。肩を支える彼の手の温度が急に一二度、高く感じられた。そこから心臓の鼓動がすべて彼に伝わってしまうのではないかとさえ思った。
その手が、急に動き出した。花袋の襟元を探り、ループタイを掴む。ぐいと引かれる。慌てて突っ張っていた手に力を入れ直すが、もう遅い。なすすべもなく花袋の体は重力に従って降下する。彼の気配がぐっと近くなる。触れる。交わる。——何が?
そのとき、また閃光が二人の視界を明らかにした。
時間にして一秒に満たないその瞬間に花袋の目に映ったのは、夜の底の閉じ込めて透かすような花緑青。それがほとんど視界のすべてを占めているのだった。それだけでも驚くべき事態だったが、その上唇には、柔らかな感触を感じていた。それがなんであるのか、花袋の頭はすぐには答えを出せそうになかった。
微かな吐息を感じる。暗闇の中で溺れるように、花袋はようやく唇を離して呼吸した。
消えたときと同じく、灯りが戻るのも唐突だった。
ぶん、と音がして部屋の電気が付くのと、花袋がバネ仕掛けのおもちゃのような勢いで身を起こして跳びずさるのはほとんど同時だった。
独歩はといえば正反対にゆっくりと体を起こし、腕を回しながら部屋を見渡して眩しそうにしている。
「あ、あれ、あの、さ、さっきの、あれ——」
「ん?」
独歩はなんの含みもなさげにあくまで動作の一環として、手の甲で唇を拭った。それを目にしてしまえば、花袋はさらに言葉が出なくなる。
やがてにわかに、寮全体が騒がしくなった。まるで停電の間の静けさが嘘だったかのように、人の話し声、廊下を走る足音、扉を開け閉めする音、そういった人間の立てる雑音が耳に付いた。
——食堂で雨漏りだ。手が空いてるやつは来てくれ!
そんな声が階下から聞こえた。
「おう、今行く!」
独歩は大きな声でそれに返事して、花袋のことなど見向きもせずにさっさと出口の方へ向かってしまう。取り残された花袋が呆然としているうちに、彼は扉を開け、そのまま出て行くかと思いきや閉める間際に振り返って、
「嵐もそうそう、悪いもんじゃないだろう?」
あの独特の、人を食ったような笑みとともに言うので、花袋はその場にへなへなと崩れ落ちた。
嵐は変化を連れてくる。
それは確かな真実のようだった。


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