梅雨と紫陽花

2,304 文字

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 読書の合間、目の疲れを覚えた花袋は束の間、窓辺からぼんやりと外を眺め下ろした。図書館の庭に、薄暗い空からぼたぼたと温い雨が降り注いでいる。昨日も、おとといもそうだった。こうなると、敢えてこの天気の中を外へ出ようという気にならない。足元は悪い、傘を差していてもどうしても濡れる。湿気が肌に纏わり付く感触も煩わしい。そういうわけで、この一週間というもの図書館と寮の間を何往復かした以外ほとんどこうして引きこもっている。晴耕雨読の故事に倣って、しばらく疎かにしていた外国文学の研究を再開している。大概の文学書が日本語に翻訳されていているのは転生して驚いたことのひとつだが、たまには原語で読んでみるのもいい。翻訳書では見えなかった作者の言葉選びが見えてくるから——と。
「花袋! 出掛けるぞ!」
 ノックの一つもなく他人の部屋の扉を大胆に開けて入ってきたのは国木田独歩だった。そのことに関して何を言っても無駄なのは経験済みだ。「他人の部屋じゃない、花袋の部屋だからだ」と何のてらいも無く返されたらこちらはもう言うことがない。それは結構。
「独歩。……なんでまたこんな日に」
 雨だぞ、と親指で窓を差して言外に「行きたくない」と主張してみる。が、それも無駄に終わりそうだ。
「雨だからだ。ほら、行くぞ」
「行くって……どこへ?」
 腕を取られて無理矢理椅子から立たされる。手に持っていた本をなんとか机の上に戻し、引っ張られるまま扉へ向かう。上機嫌な彼は一大スクープをこっそりリークするかのように、にやりと笑って小声で告げた。
「紫陽花を見に」
「はあ?」

 紫陽花なら図書館の中庭にも咲いている。が、それを見にいくことを「出掛ける」とは言うまい。傘を差し黙ってついて行くと案の定、独歩が向かうのは図書館の正門だった。そこから外へ出て折良くやってきたバスに乗る。
「別にいいけどさあ。なにもこんな天気の日じゃなくても、紫陽花くらいいつでも見に行けるだろ」
 時間帯のせいか天気のせいか、バスの中に人影はまばらだ。前後二列に分かれて座って、花袋がぼやけば前の独歩が振り返る。
「まあ、独歩さんに任せなさいって」
 さっきから文句ばかり垂れている花袋に対し、そろそろ何か言ってくるかと思ったが、彼は相変わらず鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌だ。
「……やけに機嫌がいいな」
「そう見えるか?」
「見える」
「アンタと出掛けてるからかな」
「ば……ッ」
 とんでもないことを言い出す友人に慌てて周りを見渡すが、誰も気にした様子もない。言った本人も花袋の慌て様に首を傾げている。
「どうした?」
「……俺の方がおかしいのか?」
 そんなことをしている内に目的地の最寄りまで着いたらしい。独歩に合図されてバスを降りる。鬱陶しい雨はまだ止む気配がない。
「よしよし。まだ降ってるな」
「なんで嬉しそうなんだよ?」
「今に分かる」
 独歩は完爾として傘を開いた。腑に落ちないまでも彼に言われるがままついて行く。しかし、紫陽花を見にいく言うからてっきり自然公園かどこかに連れて行かれるのだと思ったが、この辺りは住宅街だ。こんなところに紫陽花が咲いているような場所が果たしてあっただろうか。
 人気の少ない道を二人は並んで歩き出した。雨の音に聞き入ったり、道を塞ぐ水たまりを大回りしたり、たまに通る自動車が泥を跳ね飛ばすのに文句を言ったりしながら、バス停から十分近く歩いただろうか。
「ここだ!」
「……ここぉ?」
 看板を指さして独歩が喜色を露わにした。住宅街のさなかに突然現れた公園……というはずもない。一見古民家風のそこは、出ている看板からして喫茶店のようだ。木造の平屋建て、小さな洋風の門から入口まで飛び石が点々と続いている。そこを一つ飛ばしに踏んで辿り着いた庇の下でようやく傘を畳む。
 店内はこんな天気のわりに盛況だった。満席というわけではないがそれに近い状況で、角の比較的広いテーブルを確保できたのは僥倖だろう。
 注文を取りにやってきた女給に、独歩はメニューも見ず、また花袋の希望を聞きもせず勝手に「スペシャル二つ、あとコーヒー」と告げてしまった。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
 お冷やをうまそうに飲んでいる独歩に、いい加減ネタばらしをしてくれと迫るが、彼はまだその気がないらしい。紫陽花を見に行くといわれたのに、連れてこられたのは喫茶店。店の中に紫陽花が活けてある様子もなく、かといって店の名前が紫陽花というわけでもない。さてはなにかの隠喩かと考えをめぐらすが、そんな隠語があっただろうか。
「まあまて、もう少しだから……ほら」
 ——お待たせいたしました。雨の日スペシャルメニューでございます。
 目の前に背の高いグラスが置かれた。頂上にはたっぷりのクリームが添えられた薄紫のアイスクリーム。緑の葉はミント。透明な青と白と紫のゼリーが交互に並んで、確かにそれはさながら——
「紫陽花?」
「うまそうだ、食おう」
 独歩は早速柄の長いスプーンを使って攻略にかかろうとするが、花袋はしばらくぽかんとしてしまった。
 雨の日に彼が外出したかった理由。紫陽花だなんだと言いながら目的は雨の日にしか食べられないパフェだったなんて、そんなのまるで子供みたいじゃないか。
 親友の幼く無邪気な一面を垣間見た気がして、花袋は笑った。
「なんだよ……それでお前、あんな上機嫌だったのか」
「は?」
 うまいうまいと食べていた独歩が、スプーンを繰る手を止めて花袋を見る。含むところもなにもない優しげな笑みと共に。
「それはアンタと出掛けてるからだって、言ったろ」


(第18回花独ワンドロ参加作)

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