遠雷

3,314 文字

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 夏の山はまるで生命力の塊のようだった。
 楡や樫の木の濃い緑の葉が作る木漏れ日。その下で旺盛に生える雑草たち。ヤマユリ、キスゲの目の覚めるような鮮やかな色。騒がしく鳴く蝉の群れ。シジュウカラやキビタキの美しいさえずり。どれをとっても命と、力と、生に満ちあふれた、夏であった。
 その山道を二人は登っている。
 独歩は下ろし立てのステッキを左右に振って、下生えを払いながら先頭を切る。花袋はこれも先日街で買ったばかりのカンカン帽を押さえながら、たった今頭の上で鳴いた鳥の居場所を首を上げて探った。空は真っ青に晴れ、ちぎれ雲が二三浮かんでいる。上りかけの太陽はますます輝いて花袋の目を刺した。蝉の声で耳鳴りがするようである。気温はこれからぐんぐんと上がるだろう。
「どうした、花袋」
 先を行く独歩が立ち止まって振り返る。花袋はそれに、なんでもないと答えて追いつく。二人は日が南中する前にもう少し上のほうまで行ってみるつもりだった。そこにはちょっとした沢があって、また桂の木の木陰があって、涼むのにはちょうどよいのだ。食堂で作って貰った二人分の弁当は花袋が持っている。逆に独歩は氷のたんまり入った麦茶の水筒を二つ下げていた。二人とも、読むつもりの本は懐に携えている。図書館の本は汚すと大層叱られるので、街の古書店で一冊百円で買った文庫だった。花袋が選んだのは、猫の絵が表紙に描かれた、アメリカのSF小説だった。独歩は日本の女流作家のを選んだ。どちらもタイトルに夏、と入っているのが決め手だった。
 目当ての川辺に着いてみると、水の気配のおかげでそこだけ気温が一二度低く感じられた。
「ああ、喉がカラカラだ」
 犬のように舌を出してアピールする花袋に、独歩は笑って水筒を手渡してくれた。キンキンに冷えた麦茶が喉を落ちる感覚は格別で、そのまま一気に半分ほどを飲み干してしまった。
「お前、そんなに飲んで、帰りに困るぞ」
「いいだろ。あそこの沢の水を汲んでいけばいいんだから」
「飲めるかあ?」
 遠目には清らかに見える水を、確認せねばなるまいと二人して沢のぎりぎりまで行って覗き込んだ。そうすると、ちょうど階段のように岩が組み合わさっていて、うまく水際まで降りられるようになっている。それを見つけてしまったらもう、水に入りたくて仕方がなくなった。どちらともなく荷物を置いて、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンの裾をからげた。ついでにシャツも腕まくりする。もちろんジャケットなどははじめから着て来ていない。
 独歩のまっ白いくるぶしがあらわになって、花袋は見てはいけないものを見た気がして目を背けねばならなかった。そんな花袋の気も知らずに、独歩はするすると岩を降りてゆく。彼はつま先をそっと水に浸した。
「冷てえ!」
 とたん、悲鳴のような歓喜のようなはしゃいだ声が上がる。
「気持ちいいぞ! 早く来いよ!」
「おお!」
 彼の細い肩が振り向いて花袋を呼ぶ。彼が自分の方を振り返るのが花袋にはいつもなんとなくうれしい。
「うわっ! 冷てっ!」
「な、冷たいだろ!」
 そこは流れの激しい山の沢においてやや水の溜まるような地形になっていて、足を差し入れたくらいでは水に流される恐れもなさそうだ。二人並んで岩場に腰掛けて、流水に足を晒した。きらきらと陽光を受けて輝く水面が、二人の足を順々にくぐり抜ける。
「お前の方が足がでかいな」
 おもむろに独歩が、自分の右足を花袋の左足に寄せるので、花袋は逃げそうになる足をどうにかそこへ引き留めるので精一杯だった。水よりもなおひんやりとした素足が触れあう。
「も、もうそろそろ上がらないと、冷える」
「そうだな」
 かろうじて上ずらなかった提案に何のてらいもなく同意して独歩はさっさと自分だけ引き上げてしまう。取り残された花袋は足の代わりに手をそこへ差し入れ、冷たい水を掬ってほてった頬を存分に洗った。
 それからすぐに昼を食べて、午後の一番暑い時間を木陰で読書して過ごした。じっくりと没頭していた花袋と違って、独歩は時折本を閉じると、ステッキをぶらぶらさせながらあたりを歩き回ったり、また沢へ降りたり、あるいは風の音、水の音に熱心に耳を澄ませて、手帳に何か書き付けたりしていた。その気配をさやかに感じながら、花袋はずっとページをめくっていた。
 低い太鼓のとどろくような音を耳にしたのは、太陽の具合から、もう三時を過ぎた頃だった。花袋が顔を上げたとき、独歩は少し離れた木立にもたれかかってペンをいじりながら手帳を読み返していた。その彼もまた音のしたほうを見ている。
「雷か? 夕立でも来るかな」
「まだ晴れてるが——でも、あの雲はやばそうだな。帰るか」
 ペンの尻で彼は東の空に沸き立つ白い入道雲を示した。その下で墨を流したような薄黒い雲がわだかまっている。
 二人は手早く荷物をまとめて下山にかかった。歩き出してすぐ、生ぬるい湿った風が吹いてきて、これはいよいよと足を速めたが、遅かった。ぽつ、ぽつ、と最初の数滴が落ちたと思ったらあっというまに、土砂降りの体である。
「買ったばっかなのに!」
 花袋は帽子を懐に抱えるようにして抱いて走った。独歩も木でできたステッキを、できるだけ雨から隠して持っている。なんとか二人が体を落ち着けたのは、行きにも通った大きな欅の木の元だった。樹齢が何百年あるだろう、枝振りも申し分なく、二人でひととき雨をしのぐにはよさそうだった。
「ひどい目に遭った……」
 独歩はすっかり雨を吸って色を濃くした灰色のシャツの裾を両手で絞っている。ピタリと体に張り付いて、彼の体の細い線が露わになるばかりか、裾からは薄い腹が覗いている。
「お前も絞った方がいいぞ」
「そ、そうだな!」
 そう声を掛けられるまで、視線が外せなかった。
 雨は止む気配がないばかりかますますひどくなってゆくようだった。しばらくは服を絞ったり髪から滴を飛ばしたりで忙しかったが、こうなってくるともはやできることもなくて、二人して口を閉ざしてただ雨が上がるのを待つしかない。
 雨音がうるさくて、二人とも口を開くのが億劫だった。
 また遠くの方で、雷が鳴っている。
 このまま、ずっと二人きりなのだろうか、と花袋は益体もないことを思いついた。このままずっと、この降りしきる雨の中、二人きりだったら。
「あの雷がさ、」
 口を開いたのは独歩だった。花袋はうん、と相づちを打った。
「あの雷が、こっちに来たら、やばいかな」
「……やばいんじゃないか。こんなにずぶ濡れだもん。この木に落ちたら、一発で感電死だ、きっと」
「二人とも、いっぺんに?」
「多分な」
「……それも、いいかもな」
 えっ、と花袋は咄嗟に独歩を見た。彼は雨雲の向こうの雷鳴を見透かすかのように、東の空を見つめていた。それから花袋が見ていることに気がついたのか、視線を合わせるとにっと一つ、唇で笑って見せた。
「このまま二人で、死んでしまうか」
 このまま。
 それを花袋も、考えたのではなかったか。
「……いやだよ。お前と心中なんて」
 だのに、口からまろび出たのはそんな正反対の強がりで。
「そっか。そうだな」
 間もなく独歩も、軽い調子で頷いた。

 そのうち本当に雷が近づいてきたので、あんなことを言った独歩のほうが、「やばい、ほんとに来た、死ぬぞ、これ、やばいぞ!」と慌て始めた。
「どうする花袋!」
「どうするって、そりゃあ、走るしかないだろ!」
「雨やばいぞ!? 下着までびしょ濡れだぞ!?」
「帰ったら速攻で風呂だな!!」
「くっそう!!」
 こんなところで死んでたまるかー!とわめいた独歩が、やっぱり先に走り出した。
 花袋もすぐに雨の中へと飛び出して、ぬかるんだ道を転ばぬように全速力で翔った。途中から何故か笑いが止まらなくなって、二人して笑い転げるように図書館まで走った。帰り着く頃になってようやく雨は止んで、綺麗な夕焼けすら雲の合間から覗いたものだから、それすらおかしくてまた笑った。

 それでも、この夏、二人は思い出すだろう。雷の音の聞こえるたびに、あの欅の木の下で聞いた甘美な誘いの言葉を。
 このまま二人で、なんていう夢のような話を。

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