裏庭

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 午前九時から非番の文士たちによって始められた大除草大会は開始一時間にして既に中だるみの気配である。中庭のいたるところに文士の死骸が転がって、暑い暑いと泣き言を言っている。少ない日陰を分け合って代わる代わる休憩を取りながら真面目に草むしりを続ける者もあれば、堂々と木陰に横になって昼寝に入る者もいる。残りも惰性で手を動かしながら、口の方が動いているような有様で、庭の除草は遅々として進まなかった。前庭の車止めのあたりは見栄えが悪いということで早いうちに済ませたので良かったが、中庭に移動したところで集中力が尽きてしまった。とかく暑いのがいけない。まだ十時だというのに殺人的な直射日光が文士たちに降り注いでいる。
 それでもしらばっくれて部屋に帰る者がいないのは、昼には喉越しの良い素麺と、近所の農家から差し入れられたスイカが冷えて待っているからだ。これは慰労として草むしりに参加した者にしか振る舞われない。また、午前中の働きによっては食後に氷菓の類いも振る舞われると知らされて、それ目当てに熱心に草をむしっている文士も少なくはなかった。
 侵蝕者との戦いを由として呼び出された文士がなぜ草むしりなどに、と当初参加を渋る者もあったが、専門に図書館の園芸を担当している親子が帰省でたまたま留守の間、後を頼まれた用務員のじいさんが暑気中りで目を回していると聞いたら仕方がなかった。代わり映えのない図書館での日々に彩りを添える美しい中庭に心を癒やす文士は多い。見て見ぬふりで放り出すのはあまりに薄情である。加えて、食堂からの大振る舞いとあれば、よほどのひねくれ者でなければ参加した。
 独歩もまた朝から草むしりに精を出す一人だった。できればデザートのアイスクリームにありつきたいから、なかなか真面目に取り組んではいたが、さすがにこう暑くては、やる気もそがれる。独歩は屈んでいてすっかり凝り固まった腰をぐんと伸ばして顔を拭いた。軍手を取ったついでにシャツのボタンを上から一つはずす。小休止の度にはずしているのでもう三つは外れていたが、期待するような涼しい風はいっかな通らない。そもそも今日は風がない。気温だけがじりじりと上がってゆくばかりである。
 仕方なく首に巻いたタオルで胸に浮いた汗を拭っていると、向こうにやけに涼しげな格好の男がいるのが見えた。明るい色のくせっ毛と白いシャツ。隣には徳田がいて何事か話している。花袋に違いない。
 支給の麦わら帽子を被って、首にはタオルを巻いているところまでは同じだが、独歩がネクタイこそ外しはしたがいつものシャツを腕まくりしただけなのに対し、花袋は職員の息子のお下がりだとかいうステテコを履いている。ステテコといえば彼らにとっては下着のイメージが強いが、最近は外で履いてもおかしくないような色柄のものも多くあるらしい。職員だって息子の下着をわざわざ人にやったりはしないだろうから、花袋のそれももちろん外用のに違いない。明治生まれだとしても新しいもの好きな文士の性で、花袋は違和感もなく着こなしている。独歩は却って、いつものあのいかにもあつくるしい洋袴などよりよほど目に涼しくていいと思う。
 膝から下に布がないうえ、足元には誰に借りたか下駄まで履いているのだから、独歩よりいくらかマシに違いない。いいなあ、と思いながら無意識にボタンをもう一つはずす。気分だけでも涼しくなりたかったのだ。
 どれくらいか、結構長い間ぼんやり花袋を目で追っていた。その彼の目が急にこちらを向いたのは、あんまり見過ぎていたから視線でも感じたせいかもしれない。徳田もいることだし、声を掛けるべきかどうか迷っていると、花袋はずんずんとこちらへとやってきた。その表情はどこか厳しい。
「お前……」
 独歩の目の前までやってきて、花袋はますます苦々しい表情で独歩を見下ろした。下駄を履いているぶん、ほんの数センチ花袋の方が背が高い。花袋はそれ以上何も言わず、独歩の腕まくりしていてむき出しの腕を掴んだ。そのまま引っ張るようにどこかへ連れて行こうとする。そんなことをされて普段なら黙っている独歩ではないが、このときは何故か何も言う気が起きなかった。ただ牽かれるままに花袋の後をついて行った。
 歩いている最中、ただ花袋のじっとりと汗ばんだ手の感触を感じていたことを覚えている。
「——独歩、お前、大丈夫か」
「え?」
 いつの間にか二人は日陰にいた。建物の影だった。やってきたとおぼしき方向を振り返ったが、あまりの明暗の差に色が飛んで、白くしか映らない。くらりときたのを、片手を壁について耐えた。図書館の赤煉瓦の壁には違いないが、ところどころ苔が覆って黒くまだらになっている。ひやりと冷たい温度に、独歩は徐々に周囲を見渡す余裕ができたことを感じた。
「どこだ、ここ」
「裏庭。草むしりの途中に見つけたんだ」
 そこは見覚えのない場所だった。
 湿った土の匂いはあるが、足元はろくに地面も見えないくらいの雑草で覆われている。崩れ落ちた煉瓦がところどころに覗いている。花壇のようにも見えるが、建物の影に花壇は作るまい。この一角は建物の位置の関係で、きっと年中日が当たらない。だとしたら井戸か、かまどか。いずれ図書館ができる前よりある古い何かの名残であろう。
 それから、向こうの藪の中にはきらきらと光るものがある。どうやらあそこまで行けば日が当たるらしい。その分雑草の勢いもすさまじく、人の背丈を超えるほどである。目をこらすと、破れた温室のなれの果てであるようだ。骨格がかろうじて残ってみえるが、あとは蔦の類いが天井も壁も突き破ってしまっている。
 その隣には鉄の支柱と鎖だけが残ったブランコがある。また、雨ざらしで錆びてボロボロになった古い看板が立てかかっている。自転車の車輪。古い食器。貝殻。壜。そういう雑多なものが積まれた小山もあった。ただ全部は雑草に覆われてしまって、もうほとんど草の山と見分けがつかない。
 裏庭、と花袋は言った。庭の体をなしているかは怪しい。しかし使われなくなって、誰からも見捨てられた、うら寂しい廃墟をあらわすに、裏庭という言葉は適切であるように思われた。
「こんな場所があったとはな……大スクープじゃないか!」
「その様子じゃ、大分調子が戻ってきたな」
 俄にはしゃぎだした独歩の肩を、花袋が掴んで自分の方へと向き直らせる。その手を取り、脈を測る仕草をする。独歩は首を傾げた。
「どういうことだ?」
「お前、随分ぼうっとしてただろ。あれ、たぶん日射病のなりかけだぞ」
 言われてみれば花袋を見つけてからここに連れてこられるまでの記憶が薄い。なるほど、と納得している独歩をあきれ顔で眺めつつも、花袋は自分の麦わら帽子を団扇代わりに仰いでくれた。
「ああ、涼しいな」
 待ちわびていた涼風に独歩は目を細めて喜んだ。花袋も笑っていたが、次第にそわそわとしはじめ、やがては独歩から視線をはずしてしまう。
「それはよかった。……じゃあ、もういいだろ、それ」
 急にそっぽを向いた花袋に、独歩は不審を抱いた。
「何が?」
「だから、……シャツ。前開けすぎなんだよ、お前……」
 独歩はようやく、自分の胸元がすうすうしていることに気がついた。胸元を見下ろすと、半分はボタンが外れて腹の近くまで丸見えである。我ながら人前でするには見苦しい格好だったと反省したが、それよりも必死にこちらを見ないようにしている花袋のほうが興味深かったので、あえてこう反論した。
「そんなに俺の胸が見えると困るか?」
 言葉の端に揶揄の色があることに、さすがの花袋も気がついたようだ。
「からかうなよ。さっっさと閉めろ」
「俺は別に、このままでも困らん。涼しくていいしな」
 それを聞いて、花袋はむすっと黙り込んでしまう。調子に乗った独歩は、すかさずこう付け加えた。
「キスマークがあるわけでもあるまいし」
 単純に、この何の変哲もない平らな男の胸を花袋が見まい、見まいとしているのが不思議なだけだった。その時には、けっしてそれ以上の意図も、期待も独歩にはなかった。
 だが、花袋は何を思ったのか——
「キスマークがあれば、いいんだな」
 言い放って、とんと独歩の肩を押す。冷たい、苔むした壁に背中が当たって我に返ったが、花袋はそうではなかった。
 花袋の手から麦わら帽子が落ちた。逃がさぬように、と腰と肩とを掴まれる。まるでスローモーションのように、花袋の唇が独歩の胸へと落ちてくるが見える。見えているのに、独歩には何もできなかった。目を伏せた花袋が、シャツの隙間から露わになった心臓の真上へと口づけする。その様子をまざまざと目の当たりにする。熱い、掴まれた手などとは比べものにもならない熱い唇が心臓の上を吸う。じゅ、と聞こえるはずのない水音を耳が拾った気がした。心臓がばくばくと跳ねている。それが花袋の唇からすべて伝わってしまうのを、独歩は恐れた。
 ゆっくりと花袋が顔を上げる。ようやく離れた唇の下には、真っ赤な痕がついている。
「これで、いいな」
 花袋は独歩を見ることなく、ボタンを下から止めていった。せっかくついた痕がシャツの向こうに消えていくのを、独歩はむなしく見送った。
「これに懲りたら、もうばかなこと、言うなよ」
 麦わら帽子を拾って被る花袋は、独歩の目にはいつも通りに映った。その言葉がすべて説明したようなものだった。花袋にとっては、言うことを聞かない独歩を懲らしめるための、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだろう。こんなに胸を高鳴らせている、自分がいけなかった。
 急に蝉の声が激しくなった。
 ミンミンゼミが高々と鳴いている。
 遠くから、いったん休憩にするぞ、と呼ぶ声が聞こえる。
 あのまっ白い日の下に、もう行かなければならないのかと思うと目眩がするようだった。きっと裏庭を出たら、花袋は何食わぬ顔でみんなと笑うだろう。秘め事はすべて、影で区切られたこの裏庭に置いていく。見捨てられた温室やガラクタの山と同じように、それはやがて雑草に覆い隠され、なかったように消えてゆく。
 そのことを寂しいと思っている自分に、独歩は気がついた。

 気づいてしまった。

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