「政治家もいいかもな」
と独歩は言うのである。ボックスシートの向かい側で、行儀悪く座席にあぐらをかいて、汽車のガタゴトいうのに任せて体を前後に揺らしながら。
車窓からは真夏の生暖かい風が、それでも絶えず流れ込んできては滲んだ汗を冷やしていった。昼下がりの陽光はさんさんと差し込んでいる。機関車の吐く排煙は窓の外を後ろへ後ろへと流れてゆく。
「それか、詩人か、思想家か……」
そう語る彼は溢れる野心を体現したような若々しい姿で、降り注ぐ夏の日差しにも負けずにきらきらと輝いて見えた。
「お前は小説家になるべきだ」
花袋はたまらずにそう口を挟んだ。彼は体を揺するのをやめてきょとんとした。
「そりゃ、アンタはそうだろうけど」
「俺じゃなくてお前の話」
「小説って、なあ」
彼は異な事を聞いたとばかりに含み笑いした。びゅうと一際強い風が入ってきて、彼の長めの前髪を浚っていった。それを彼はくすぐったそうに手で撫で付ける。それからまた花袋の方をちらりと見る。
「書いたこともないし、そもそも書き方も知らん」
「俺が教えてやるよ」
「アンタが?」
今度こそ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、一瞬の後にはケラケラと笑い出した。
「そりゃあいいや。頼むぜ花袋先生」
汽笛が鳴る。
また海が見えてくる。潮風が磯の香りを運んでくる。
……
目を覚ますと向かいの席には誰も座っていやしなかった。それもそのはずだった。花袋は一人で旅に出ているのだった。彼の旧友は一月前に逝ってしまった。
旅の目的はまだまともに足を踏み入れたことがない九州の全体をこの目で見てくること。それに亡き母や兄の悲願だった父の墓参りをすることもまた重要事項に数えられたが、一番は騒がしい現世を離れて疲弊した心を静かに休ませたかったからだ。旅に出るそれ自体が目的といえた。新聞の連載もちょうど終わった七月の末、花袋は車上の人となった。
花袋はふと、膝の上に置いたままの紙束をそっと撫ぜた。国木田独歩の日記である。葬式のときに見つかったそれはかねて故人が出版を望んでいたもので、花袋はそれの校訂を任された。それを彼はこの旅に連れてきていた。
懐かしい友の姿を夢に見たのは、それのせいだったに違いない。出会った頃のような若々しい姿をして、それに釣られてか夢の中では花袋自身もまた若い姿になっていた。彼が語ったのは日記に書いてあった一部分で、花袋自身も何かの折に彼から直接聞いたことがあった。
——吾断然文筆の人たる可きや、政治の人たる可きやの疑問は吾を五里霧中に迷はしむ。
彼は友人の、既に思い出になりつつあることを寂しく思いながら、その書かれた行を指先でなぞった。こんな夢を見ることはそうそうあるまい。もう少し長く寝ていればよかったと女々しいことすら考えた。
下関の停車場が間もなく近づいていた。
■
花袋の思惑は全く裏切られることになった。
その旅の間、独歩は何度も彼の夢の中に現れては、若き頃そのままにあれこれを話していった。
それは例えば、門司でとった場末の宿の蚊帳の中であったり、耶馬溪の谷の鮎釣りをしている河原の木陰でついうとうとしたときだったりしたが、一番多かったのはやはり汽車の中でのことだった。花袋があんまり汽車でうたた寝するものだから、周りで見ていた人が、「あの田山花袋っていう先生はよくよくお昼寝される方だねえ」などと噂するほどだった。
独歩が夢の中で話す内容は様々で、しかしそれはどれも日記の中から引かれていた。政治のこと、思想のこと、宗教のこと。宇宙、自然、人間の運命のこと。それらに花袋は時に静かに耳を傾け、時に頷き、時に楯突いてみせた。すると独歩の方も、声高らかに演説したり、同意に気をよくしたり、ぺちゃんこになるまで花袋のことを言い負かそうとしたりした。
佐伯に寄港するという船の中で、独歩は彼が一年くらい英語を教えていた学校のことを話して聞かせた。
「寄ってくか?」
花袋が尋ねると、彼はいやそうな顔をして
「別にアンタが寄りたいなら止めはしないが。行っても俺はいないぞ」
そう言うので、旅の都合もあり結局寄らずじまいだった。
霧島山に登山し、鹿児島で学生時代の知人に何十年ぶりかに会った。球磨川を舟で下って、八代ではとうとう父の墓を参った。
往路に比べて帰路はよほど容易かった。八代からは小倉・門司まで鉄道が通っていて、何もしなくても着いた。行きと同じように関門海峡を連絡線で渡って、山陽鉄道を乗り継ぎながら花袋は東京を目指した。その間も独歩は度々夢に現れては消えてゆく。そのおかげでこの一月というもの、花袋は一人旅の寂しさを一度も感じる暇がなかった。元来旅好きな花袋は友人と行く旅も一人で行く旅も同じくらい愛していたが、今回は一人でゆこうと決めていたのにとんだ誤算である。それも、また悪くない類いの誤算だったので、言うことはないのだが。
ふと目を開けると、ボックスシートの向かい側でいつものように独歩が座っている。時刻は夕暮れ。神戸から東海道線の急行に乗り換えて、もう箱根関を越えたあたりだった。富士山が見たくて左側に陣取ったので、西日が直に差してまぶしいほどだった。
その夢のいつもと違ったのは、夢の中でさえ花袋は眠っていたという点だ。だいたいは独歩が賑やかに話し出すところから始まるのだが、今回に限って様子が違った。彼は目を開けた花袋に気づいていながらも、じっと目を離さずにいた。長い足を組んで、睫毛を伏せがちにして、少し微笑みがちにして。彼はそうしてずいぶん長いこと何も言わずに見つめてくるので、花袋のほうがしびれを切らして口火を切らねばならなかった。
「なんだよ、そんなに見て」
「いや、アンタ、老けたなあと思って」
独歩はいつも通りに若い姿なのに、いつの間にか花袋は年相応の姿になっていた。夕焼けの窓に映った顔には年齢が刻まれて、目尻や口角のあたりは皺が目立った。指のペンだこがいやに硬くカサカサしているのが急に気になった。
「同い年だろ。なんでお前は老けないんだ」
「俺はいいんだよ、これで」
彼は柔らかい笑い方を不敵に変えて、ふんと鼻を鳴らした。その様子があんまり彼らしかったので、花袋はもう何も言われなかった。
「そろそろ東京だ」
窓の外をのぞき込んで独歩が言った。夕闇が濃くなるにつれ、どんどんと町の灯が増えていた。都会が、帰るべき現実が近づいていた。
「俺もそろそろ暇乞いだ」
続けてそう言うので、花袋はえっと驚いたきり、言葉に詰まってしまった。
あんまり彼が自然に夢の中へ出てくるので、こんなに唐突に別れが来るとは思っていなかった——いや、そうではなかった。心のどこかで、この旅の終わりがまた、別れの時なのであると花袋は察していたのだ。ただ、それに見ないふりをしていただけで。
独歩は、そんな花袋を窓際に頬杖をついて、静かに見守っている。彼の影は窓には映っていなかった。花袋には、そのことがどうしても悲しくてならなかった。
「なあ、まだ……」
どうにか切り出したのは、自分でもどうかと思うくらい、無様なものだった。
「まだ、俺はまだお前と一緒にいたいよ。もう少し一緒に来てくれないか。……そうだ、このまま旅を続けよう。新橋から宇都宮へ出て、東北へ行こう。ちょうどいい、日光にも寄ろうか。北海道まで行ったっていい。お前、行ったことあるんだろう。案内してくれよ。空知川のあたりは、俺も一度見てみたいと思ってたんだ。なあ、だから、なあ——」
最後の方はもう言葉にもならず、懇願の体だったのに、彼はどうしても「うん」と首を縦にしてはくれなかった。
汽笛が鳴る。
新橋の停車場がすぐそこまで来ている。
「アンタの旅のゆきさきの、幸多からんことを」
彼は最後までキザったらしく、かっこつけた台詞を、そのくせ一番の笑顔と一緒に花袋にくれた。目に焼き付けたくて一生懸命目を開いているのだが、どうしてか次々に滲んで、最後まではよく見ていられなかった。
……
「お客さん。お客さん。終点ですよ。新橋です。車庫に入りますから、早いとこ起きて、降りてくださいよ。お客さん」
ゆさゆさと体を揺すられて花袋は目を覚ました。車内にはもう人気がなく、ただ制帽の車掌が困った顔をして花袋のことを見下ろしていた。
「ああ。ああ……すまない」
どうにかそれだけ答えて、のろのろと体を起こす。見かねた車掌は網棚に残っていた花袋の荷物を代わりに引き下ろしてくれた。
「お客さん、具合でも悪いんですかい。なんなら少し休んでいったら——」
「いいんだ。大丈夫、ありがとう」
荷物を手に携えて、彼はプラットホームに降り立った。いつの間にか東京には秋が来ている。涼しい風がひんやりと頬を冷やしていった。
その後、独歩が夢に出てくることは二度となかった。
花袋の旅はまだ続いている。まだもう少し、続くのだろうと思う。
※このお話は転生前(明治時代)の話ですが、ビジュアルは文アルで想像して書いた二次創作です。
参考文献:『日本一周』(田山花袋)


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