空を飛ぶ夢を見た。
どうにも重くてままならなかった体がするりと脱げて、これで自由だと歓喜して空へと飛び上がる夢だ。今なら行きたい場所へ行き、会いたい人に会える。
そう思ったのに、空は薄もやがかって景色も見えず、方角も知れない。そればかりか、まるで心までもやに覆われてしまったように、どちらへ行けばいいかわからなくなった。
会いたい人が居た気がするのだ。どうしても会って話さねばならない人が。ゆっくりと翼をはためかせて旋回する。どこかに雲の切れ目がないかと目をこらす。
——独歩。
風の音の中に紛れるように声が聞こえた。そして瞬く間に思い出す。どうして忘れていたんだ、アンタに会いたかったんだ。
声のするほうへと一直線に舞い降りる。あれだけ立ちこめていたもやが溶けるように消えて、彼の後ろ姿が見える。それだけで嬉しくなった。ようやく会える。どれだけ会いたかったと思ってる。
喜びのままに名前を呼んで振り向かせようとして、しかし寸前で思いとどまる。初めの一音を舌先まで載せた口が、だんだんと閉じてゆく。
彼は俯いている。俯いて、顔を覆っていた。
アンタ、どうして泣いてるんだ。
あぶくが水面に浮かび上がるように、独歩はぽかりと覚醒する。
ああ、夢か。そう思った瞬間から夢の記憶は薄れてゆき、現実が緩やかに上書きする。あたたかい色の漆喰の壁。白い天井。煌々とともる蛍光灯。石油ストーブの上に置かれたやかんが沸く音。薬品棚に並んだ薬のつんとした匂い。
そうだ、潜書で、しくじって。
太い鞭に襲われて体を弾き飛ばされたところまでは覚えているが、それ以降の記憶はない。こうしているということは、絶筆は免れたのだからきっと誰かが連れ帰ってきてくれたのだ。
毛布の掛けられた体が重い。心臓のあたりが特に重く、温かい。それもそのはずで、周囲を見渡していた視線を戻してみればそこには誰かが伏せている。右耳を下にして、向こうに顔を向ける形で。顔は見えないがその明るい後ろ頭で誰かはすぐにわかった。花袋。
「な……、に」
何してるんだ。そう問おうとして、からからに乾いた喉はうまく声を発せなかった。ぴくりともせずにいるから眠っているかとも思ったが、ぽつんと、答えが返る。
「足音を聞いてる」
「は、?」
質問がうまく伝わらなかったのか。再度問おうとするが、喉が言うことを聞かない。一体どれだけ寝ていたのか。……こいつはいつからこうしているのか。花袋はいっかな、こちらを向かない。まだ彼は、耳を胸に当てている。
「心臓の鼓動は足音に似てるな」
しずかな声だけが続いた。
「独歩、お前は一人で歩いていくやつだもんな。どんどん先にいっちまう、そういうやつだって俺は知ってる。今更待てとも言わない。一人で行くなとも言わない」
できるなら反論したかった。俺だって、お前一人待つことくらいできる。呼ばれたら振り向くことだって、足を止めることだってできる。しかし花袋の口ぶりからはそんな返事を期待していないのがうかがえたから、黙っていた。
「お前の足音がしている限り、俺はお前を追いかけるよ。お前がどこに行こうとも必ず追いかける。だから——」
ばさり、と鳥が飛び立つ音がした。視線で窓の外を探るが姿は見えない。視界に入るのはただ白い雲が覆う曇天だけだ。どこかで見たような気がする空の色。
花袋の声は震えていた。
「だから飛んでいってくれるなよ。飛んで行かれてしまったら、俺はもう追いつけないから、どうか足音をさせていてくれ」
花袋はもう心臓の音を、彼の言う《足音》を聞いてはいない。両手で顔を覆ってそこへ額を押しつけている。胸の上が濡れてゆく。湿ったシャツが、温かかった場所をじんわりと冷やしてゆく。
なあ、アンタ。どうして泣いてるんだ。
それを独歩はまた聞き損ねる。
ひい、と甲高い鳥の声。音ばかりで、鳥の影はない。


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