奇跡のような秋の日の午後

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 それは十一月の末であった。
 明け方まで降り続いていた雨は日が昇る頃に止み、昼前には空を覆っていた厚い雲もどこかへ行ってしまった。小春日和と言って良い、明るい日の差す午後である。雲一つ無い空には白墨でひっかいたような白い線が一筋残っていた。飛行機雲と言うのだそうだ。
 それを眩しく見上げる間は、花袋は部屋に残してきた原稿のことを忘れていられた。久々に長い話を書こうとすればすぐにこれだ。締め切りに追い立てられることも編集者に何度となく催促されることもなければ気は楽かと思われたが、逆にそれは自ら深みに嵌まっていくのを止めてくれる者もないということだ。朝からうんうん唸って書き続けていたものの、これはもうどうしようもないと見切りを付け、気分でも変えようとようやく外出を思い立った頃には日は微かに西へと傾いでいた。
 くしゃり、と敷き詰められた落ち葉を踏む。水捌けがよいのか泥濘んでさえいないが、雨の名残で水気が滲む地面に足を取られぬよう注意を払いながら散歩をする。中庭の木々は見事に色づき、その葉を惜しげも無く散らしていた。サクラ、カシ、ニレ、ケヤキ、イチョウといった落葉樹の数々。後から植えられたというよりは、もとよりあった森を囲うように図書館を建てたのだろう。まるで山をまるまる一つ抱え込んだような中庭は転生文豪たちの格好の散策の場に違いない。花袋もその例に漏れず、この庭を——どこか懐かしい気配のする森を愛していた。ことにこんな秋晴れの日にはその思いは一層強くなる。
 その感慨の元を探すように、どこか慎重に花袋は歩を進めた。道の端に目の覚めるような黄色い野菊が二三輪、寄り添うように揺れているのをみて、その思いはまた一段と強くなった。
 そんなことを考えながら中庭の池のほとりに差し掛かった、その時だ。
(……ん?)
 足元に明らかに落ち葉とは違うものが落ちている。木枯らしというほどでもないが冷たい風が吹く度にひらひらと揺れるそれを、池に落ちる前にと拾い上げる。軽く二つに折り曲げられた手帳の切れ端らしきその紙を開いて見れば、そこに並んでいたのは見慣れた手癖の文字だった。右肩上がりの、男らしい雑な書き文字。今生の彼の見た目の繊細さとは裏腹のその文字を、花袋はよくよく見知っていた。
 またどうして、こんなところに。訝しむ心の内とは裏腹に、目は勝手に飛び込んできた文字列を辿っている。
 ——山月記 空気が冷たい 違いは
 要領を得ないその走り書きに花袋は束の間ぽかんと立ち尽くした。中途半端に途切れた言葉の先を探すように視線を彷徨わせる。答えなどあるはずもないと高をくくっていたが、意外にも目と鼻の先に同じように落ちている白い紙を見つけることになる。まっすぐにそちらへ歩いて行って、落ち葉に埋もれようとしているそれを拾い上げて広げる。
 ——ヒバリ キビタキ シジュウカラ メジロ
 続きというわけではないらしい。鳥の名前ばかり羅列されたそれに目を通すと、再び花袋は辺りを見回した。散歩道から外れた草陰にちょうど日だまりができて、その真ん中にまた紙片が落ちているのを見つける。自分が間の抜けたことをしている自覚はあったが、花袋はその紙片を追いかけるようにして森の中を彷徨い歩いた。そうしなければならないという予感ともいうべき何かが花袋の足を動かした。
 モミジの赤々と燃える木の根元に落ちていた紙には、小説の構想のようなものが短くまとめられていた。野葡萄の蔓が絡んで天然の葡萄棚の様になった古木の影には、手紙か、あるいは手紙調の小説の書き出しとおぼしきものが落ちていた。そうしていくつかの紙片を拾い集めているうちにいつの間にか図書館の敷地をはみ出していたものらしく、次第に辺りは緩やかな上り坂となる。小さな川に掛かった石橋を渡った先で見つけたメモは図書館の先週の昼食の献立だった。いよいよネタが無くなってきたとみえ、この不思議な追いかけっこももうすぐ終わるらしいと花袋は知った。小川の脇を辿るようにして斜面を登ってゆく。登るほどに落ち葉の柔らかく腐った甘い匂いが濃く漂い、また日差しがゆっくりと色を赤くしていくのを感じた。その間にも花袋は一二枚のメモを拾った。
 ——天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。
 広げたメモの中身にはっとして後ろを振り返ると、いくらか高いところに登っていたせいもあるのだろう、晴れ渡る空の向こうに富士の山が白く雪を被っているのが見えた。眼下には図書館の建物と広い敷地が広がっている。既に西日と言ってよい色の日差しが目をつんと刺した。
 とたんに花袋は、まるでぽんと急に誰かに背を押されたかのように、今日の日の懐かしさの正体に思い至った。散策の道中のことが鮮やかに巻き戻って再生される。小春日和の日差し、広葉樹の森、揺れる野菊の花、燃えるように散るモミジ、葡萄棚、川に掛かった橋、緩やかな上り坂。——丘の上の家へと続く道。
 前世、花袋が彼と初めて出会ったその日は、ちょうどこんな季節じゃあなかったか。
 風が、まるでその時を見計らっていたかのように急に強く吹いた。木々が一斉に梢を鳴らし、葉を降らせる。ざあざあと雨音にも似たその中を花袋は再び歩き出した。手の中の言葉の欠片が風を受けて、急かすようにかさかさと鳴った。いつの間にか遊歩道と合流していたので、もう道を迷う必要もない。導かれるままに、花袋は丘の上を目指した。

 見晴らしの良い木々の拓けた場所で、大きな岩に背を預けるようにして独歩は目を閉じて座っていた。寝ているのかとも思ったが違うらしい。花袋の気配を敏感に感じ取り、彼はぱちりと瞼を開けてその翡翠の瞳に花袋を捕らえる。視線だけで挨拶してきたので花袋もそれに応じた。言葉でのやりとりを省略して彼の横まで歩み寄る。独歩の視線が手の中へと集中するのがわかった。
 落ちてたぞ、と白々しく紙片の束を押しつけてやれば、彼は機嫌の良い猫のように口の端を持ち上げて、するりと花袋から視線を外した。そして、視線を外したまま不意打ちのように言うのだ。
「アンタに会えるような気がしたんだ、今日は」
 花袋が思い出したことを、独歩もまた思い出していたに違いない。季節が一巡するように、世界がひとめぐりして再び訪れた今日という日。その奇跡に感謝する気持ちは花袋も変わらない。だが、それでもきっと、彼にはわからないだろう。
「俺も、おまえに会えるような気がしたよ」
 独歩ののこした言葉の欠片を拾い集めて、彼の記憶を思い出しては書き留めて、必死に風化させないようにしがみついて。そうしている束の間だけ、花袋は彼に再会できた。彼の気配を傍らに感じては振り返り、そこに誰もいないことに絶望するのだ。戻ることのない時間を巻き戻しては繰り返し再生する、そのむなしさは、きっと彼にはわからない。
「いつだって、おまえに会えるような気がしていたよ」
 花袋は繰り返した。独歩は言葉の真意を知らずに無邪気に笑っている。西に掛かった日が彼の顔を明るく染め上げた。そこにいつかの記憶が重なって、ぼやけて消える。それでもよいと花袋は思った。こうして再会が叶ったのだ、今はもう、それでもよい。
 拾い集めた言葉の先に当然のように独歩がいる、それは奇跡のような秋の日の午後のこと。


赤井先生とプロット交換させてもらいました。素敵なプロットありがとうございました!

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