今年の誕生日も、それは盛大に祝われることになった。
去年よりずいぶん人が増えたのもあって食堂は満員御礼、その中央で代わる代わるに杯を受けながら、あまりの人いきれに開始早々顔が熱を持つ。もちろん昂揚もある、酒酔いもある、でも一番はこの人口密度のせいだろう。セントラルヒーティングで管理された文豪寮は真冬であろうとも快適な温度に保たれているのだが、各部屋で細かに調節がきかないのが欠点だった。もともとあまり酒に強くない上にこの調子では、今年は一時間もしないうちに潰れてしまいそうだ——。笑顔で祝杯を受けながらも裏ではそんなことを考えていると、ふと祝いの言葉を告げる列が途切れてその奥に見慣れた紅梅色の頭が覗いた。そういえば彼はまだ挨拶に来てくれていなかった。仲間の誕生日だからと率先して裏方を引き受け、会の前も最中も準備に給仕にと奔走してくれていたのだろう。俺はこの会の影の功労者に向かってグラスを掲げて手を振った。
「独歩!」
声を掛ければ、呼ばれるとは思っていなかったらしく少し驚いた顔をして、それでも素直に距離を詰めてくる。その表情を言葉にするならば、主役のくせに一人で何やってんだ、だろうか。確かに前世面識がなかった者やろくに話したこともなかった者、あるいは生きた時代すら違った者から酒を注がれ祝われるのは悪い気はしないが、そればかりではどこか気疲れするのも事実。付き合いの長い相手の顔を見てほっとするのは仕方がない。それが、今生では友情だけでなく、恋愛感情でも繋がった唯一無二の友なれば、なおさら。
独歩は俺の近くまで寄って来ると、いつもの余裕の笑みをどこか微苦笑じみたものへと転じさせた。
「あんた、もう顔が真っ赤だぞ」
酔ったのか、とそう言外にからかわれてむっとする。俺が酒に弱いのを知っていて、独歩はたまにこうしてからかってくることがある。そういうときのこいつはここぞとばかりに年上風を吹かせてくるので(一つしか違わないのに!)、こちらの態度も自然、少々意固地なものになる。今回も俺は素直に白状するのが癪で、目を逸らし気味に理由の一つを尤もらしく告げるに留めた。
「ここ、暑いからな」
そんな俺の様子をどう受け取ったものか、視界の端で独歩が小首を傾げる。次に一体何を言うつもりか、俺は視線だけは明後日の方向に注ぎつつ実際はどこも見ず、ただ彼の声に集中した。そのせいだろうか、独歩が不自然にならないくらいにぐるりと食堂内を見渡したその一瞬、耳の奥が詰まったような、不思議な気分を味わう。
ざわざわと潮騒のように鳴り続ける人の話し声と、その合間に時折立つ波しぶきがごとくどっと上がる笑い声。食器とナイフが擦れる音、グラスが合わさる音までがまるでぷくぷくと浮かんでははじける泡沫の囁きに聞こえた。これだけたくさんの人がいるというのに、俺たちはまるで海原に取り残された難破船のようだった。誰も見ていない、誰も聞いていない。その船の上で、彼が耳元に唇を寄せて俺にこう囁いた。
「……じゃあ、」
——俺と部屋、戻るか。
ぱちん、と目が覚めたように耳鳴りから解放される。ふと身を引いた男と目が合って、言葉の意味をじわじわと飲み込んだ。その花緑青の双眸がゆるりと細まり、まるで猫みたいににやんと笑った次の瞬間には、俺は催眠術にでもかかったかのようにコクリ、と頷いていた。
一時間も経たないうちに主役が酒席を後にすることについて、俺はもうそれがそこまで大事ではないことを知っている。ここの連中はイベント事にかこつけて飲みの口実を探しているだけなのだ。特に俺などは今年で二度目の誕生会なわけだから、皆俺がいなくとも好きにやるだろう。裏方で細々とした雑務を引き受けてくれた独歩には申し訳ないが——その彼が抜けようと言い出したのだから、あえてそれ以上心配する必要はない。
しかも独歩は、ちゃっかりと会場からまだ封の切られていないブランデーの瓶を一本とグラスを二つ、ご丁寧に氷まで中に入れて拝借してきている。連れてこられた彼の部屋、全部屋共通作り付けの書き物机の上にそれらを並べ出したものだから、俺は少々たじろいだ。食堂を抜け出して部屋まで戻る途中、冷えた廊下を歩いたので多少顔の熱は引いているとは言え、酔いが覚めるほどではない。独歩にああ言った手前「本当はもう随分酔っている」などとは言い出せない。これ以上は、その、この後のお楽しみに差し支える。と思う。
——実は、あの意味深に聞こえた囁き声が「二人で飲み直そう」の合図だったという可能性? こういったことに関しては自分の理解力にまったく自信が持てない。もっと深い意味だと思ってたのに、とも口に出せないもどかしさ。
「まだ飲むのか?」
「一杯くらいはいいだろう。今夜はまだ俺とは飲んでなかったろ」
そういったいろいろの気持ちを込め恐る恐る尋ねると、独歩はベッドに腰掛けた俺に杯を差し出しながら不敵に笑った。その笑みが全く他意がないものだったので、俺もいくらか安心して軽口を返すことにする。
「いっつも一緒に飲んでるだろ」
「あんたの誕生日なんだから、今日は特別だ」
グラスを受け取ると、独歩は俺のすぐ隣に並んで座りすかさず自分のそれを合わせて来た。キン、と澄んだ音を立ててグラスが共鳴する。琥珀色の液体の向こうで彼の顔がゆらゆらと揺れた。アルコールを透かしたせいか、この後のことを期待して今から俺の頭が煮えているのか、それとも単純に酔いのせいか。急に顔の形が変わるはずがないのに、今まで親友の顔と見えていたものが、恋人のそれにとってかわったように見えた。薄く開かれる唇の形に目が奪われる。
「おめでとう。……あんたが生まれてきてくれてよかった」
「お、おう……。ありがとう」
「はっ、照れたか」
「人誑しに本領発揮されちゃ、そりゃあな」
唇に見とれていた、などと答えるよりはそれらしい言い訳でごまかして、ちびり、と一口グラスの中身を口に含んだ。甘ったるい味が舌を溶かし、喉を通り抜けたところでカッと焼けてゆく。飲みなれぬ洋酒は気をつけないと酒量を間違えそうだ。
ゆっくりと嚥下し杯から口を離せば、独歩は隣でカーテンの閉まった窓のほうを眺めていた。見えないはずの外の様子を見透かすかのようなそれに視線がつられる。
「今夜は大雪みたいだな」
「……ああ、さっきもまだ降ってたな」
正午過ぎから降り始めた雪は、今の時間になってさらに勢いを増していた。食堂から部屋へ戻る途中、ちらりと見えた庭は真っ白に染まってなお、闇夜には白い影がちらついていた。
「誕生日が大雪だなんて、今日はなかなか忘れがたき日になりそうだな」
「……そうだな?」
世間話に興じたつもりだったのだが、さっきから独歩の返事には妙な含みがある、ような気がした。それを問い質そうと、グラスを膝に置いた、その時だった。
音もなく、ふつりと部屋の灯りが消えたのは。
「うおっ」
「ッ、停電、か?」
思わず叫んだ俺と、冷静な独歩の声。同時に食堂の方からも悲鳴が上がっていた。寮内全体が停電したのだろう。
「暫くして戻ればいいけど」
気休めのような言葉は、暗闇の中いつの間にか窓際に移動していた独歩によってあえなく否定される。彼は片手でカーテンを避け、窓の向こうを俺に見せた。
「……見ろ、本館のほうは灯りが付いてる」
促されて、見えない足元に注意を払いつつグラスを机に置き、窓の向こうを覗き込む。
言葉通り、木立一つ隔てた本館のエントランス、また正門から続く道の両脇に立つ電灯はすべて、時折吹雪く雪にチラチラと掻き消されつつも正しく光り続けていた。地域全体の異常でなくこの建物だけの問題と考えた方がよさそうだ。
「あー、そうすっと、ここのブレーカーかなあ。それくらいならすぐ戻りそうなもんだけど」
「雪が降ってるからな。電線が切れていたら復旧は時間がかかるだろう。最悪明日も停電のままかもしれない」
それは——困る。この建物の暖房はセントラルヒーティングに頼り切っている。ボイラー室で温めた水を寮内隅々まで行き届かせて建物全体を温めるという効率的な設備だが、その駆動には電気が不可欠だ。停電ともなれば今はまだ適温に保たれているこの部屋もやがて熱を失って冷えていくだろう。今すぐ布団に入ったとしてもこの大雪では、夜半凍える思いをするのは間違いない。電気に頼らない暖房器具といえば、あとは湯たんぽかカイロか、……ああ。
「そうだ、談話室に行けば暖炉があるな」
あれは正真正銘、炭と薪を使った古式ゆかしき暖房器具だ。普段は薪割りが辛いだの灰かきが面倒だのと文句を言われていても、こんな時は役に立つ。きっと食堂に残った面子もそちらに移動している頃だろう。自分たちでは電気の復旧が難しい状況ともなればなおさら、皆してあそこで夜明かしするのかもしれない。
そう思って提案したのだが、カーテンを元の通りに戻しつつ独歩はそれを素気なく却下してしまった。
「……いや、別にいいだろ。どうせあとは寝るだけなんだから」
「お前寒がりのくせに、平気か?」
自分より彼の方を心配して提案したようなものだった。基礎体温が低いせいか、それとも生まれが温かい地方だからか。独歩はどうも寒さに弱いところがある。あっさりと断られた理由を考えていたせいで、独歩が何事かを小さく呟いたのを聞き逃す。
「なんて?」
聞き返してやれば、返されたのはわざとらしく大きな溜息の音。
「……なんのためにあんたを部屋に誘ったと思ってるんだ、この盆暗。——俺が暖めてやるから、暖房なんていらないって言ったんだ」
振り返った彼の表情まではこの暗闇ではうかがい知ることはできなかったけれども、俺にはどこか挑戦的な笑みのように感じられたのだった。
その後、ベッドの上で二人で散々体を暖め合ったのは、言うまでもない。
□□□
まどろみから浮かび上がるきっかけは肌寒さ。肩や背中に当たるのは羽毛布団の感触なのに、いつもより数段寒かった。相対的に、体の全面は随分温かい。あんかでも抱えているみたいだ。
布団からはみ出していたつま先を急いで引っ込め、そのあんかに押しつける。細長いそれに絡ませると、指先からじんわりと熱が伝わってくる。……温かい。安心してもう一度意識を手放そうとすると、突然腕の中であんかがもぞもぞと動き出す。せっかく絡ませた足を振り払われそうになるので、慌てて力を込めて引き止めた。ついでに冷え切った足の裏を熱源に対してぴたりと当ててやると一瞬動きが止まって、今度は容赦なしに蹴り剥がされる。そのまま腕の中から出ていこうとするので、それだけは断固として阻止した。ぎゅうぎゅうと抱きしめて離さなければ、そのうちあんかも諦めるだろう。と思ったのだが。
「……起きてるんだろ。離せよ」
「つれないこと言うなよ」
ものを話すあんかがいるはずもなく、その正体は薄々察していた通りの男で。目を開けると、呆れたような、たしなめるような顔をした独歩が腕の中から見上げてきた。おはよ、と挨拶すれば微苦笑が返る。
「はよ。……もう明るいんだから、起きようぜ」
「雪のせいで明るいんだろ。まだ寒い、もうすこし」
時計を見もせず適当に言ってみたが、案外的を射ているのかもしれない。昨夜の様子なら随分積もっていることだろう。それなのに外から子供の声一つしないのは、きっと皆まだ寝こけているせいだ。
「停電も、直っていないみたいだし。……だめか?」
「……」
暖房がないせいで布団から起き上がる気力が無い。腕の中の熱を離したくない。独歩はしかし、今だからこそ雪を見にいきたいのかもしれないと思う。季節のうつろう様子をことのほか喜ぶ男だから、新雪に覆われ普段とは違う表情を見せる庭などは間違いなく彼の感性を刺激することだろう。踏み荒らされ、あるいは昼の日差しに儚く溶けてしまう前の真新しい雪景色は、きっと今しか見られない。
彼の想像力を妨げるような真似はしたくない。俺は独歩が好きなのだ。彼と、彼の感性と、彼の紡ぐ文章、そのすべてが好きなのだった。俺の一時のわがままで、生まれるはずの物語を、美しい詩の一節を、みすみす死なせてしまうわけにはいかない。
——しかたない。
ようやく諦めがついて、ゆるりと腕に込めた力を抜いた。名残惜しく、抱いた頭を撫でてしまうのくらいは許されるだろうか。二度、三度、跳ねた寝癖を撫で付けて、それからぴったりとくっつけていた体を離そうとする。
それなのに、独歩は布団から出て行くことをしなかった。ばかりか、ぐりぐりと俺の胸に頭を押しつけてくる。伏せた顔の下から聞こえてきたのは大きな溜息と、あんたを暖めるのは昨日限定のはずだったんだけどなぁ、というくぐもった呟き。
「独歩?」
「いいぜ。もう少しだけ、あんたのあんかをやってやる」
その時の気持ちを、どう言い表せばいいのだろう。彼の好奇心より、自分を優先させてしまった後悔。選ばれたことへの優越感。彼の創作を妨げてしまったという罪悪感。大人げないわがままを言ってしまった羞恥心。
ない交ぜになった感情を腑分けする作業は、答えが出る前に遮られた。腕の中から背伸びして頭を取られ、強引に布団の中へと引き込まれる。
「うぶっ!?」
あたたかな闇の中で、こつり、額と額が合わさった。
「何考えてるか知らないがな。俺にだって、あんたの誕生日は忘れがたき日なんだ。せっかく、あんたを独り占めしてやろうと思ったのに……雪ごときに上書きされてたまるか」
ああ、そういうことだったのか。
ようやく、昨晩から感じていた妙な空気の正体に思い至った。こいつは雪に嫉妬していたのか。——俺が今まさにそう感じていたのと同じように。
ある年の、ある大雪の日。
忘れがたいその日は、冬の寒さではなく愛する人の体温の記憶とともに、一生涯残り続けるに違いなかった。


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