先日の大磯以来、花袋の心はすっかり旅づいてしまった。普段は何気なく過ごしているが、本人も無意識のうちに、ふと窓の外を眺めては黄昏れた溜息を吐いている。その様子を目にするたびに、独歩などは呆れたような諦めたような、例えるなら幼い子供が欲しいものをじっと我慢して良い子でいるのを見るような、そういう視線を送っている。
先日の大磯、というのは、秋口に普段つるんでいる自然主義作家のみんなして島崎藤村の旧家に遊びに行った時のことだ。自治体のなんとかいう催し物で、島崎本人に招待された。岩野はまだ転生前、白鳥は「行かない」の一点張りで、結局メンバーはいつもの四人。一泊二日の小旅行ではあったが、確かにあれは楽しかった。居残りの文豪らには「学生旅行みたいだ」と揶揄された記憶もある。しかし、考えてみればあれからもう半年近くが経っているのだった。潜書の後、あるいは食事の後。談話室で討論をしていても、図書館で本を読んでいても、ふとした瞬間旅の空に思いを馳せている花袋を見るのもそろそろ飽きた。いい加減、病を癒やす頃合いだ。
「——だが転生文豪の旅行には制限がある。アンタも知っての通り、自分の展示がある文学館かそれに類する施設にしか行けない、ってやつだ。随伴者も前世の関係者に限られる。前回の大磯だって割と特例だって話だぜ。自分の家にくらい好きに行かせてくれたっていいだろうに」
「……うん、それはいいんだけどさ。その話と、俺たちがこんな早朝に東京駅にいることって、なにか関係あるか?」
現在時刻は午前四時三十分。しんと冷えたプラットフォームに立つ人影は少ない。そのほとんどは終電を逃したサラリーマン、あとはわずかな若者の姿。寝ぼけ眼の花袋が色気のない大あくびを挟みながら文句を言う、その口から白い息が塊になって飛び出した。その様子を、は、と笑った独歩の息もまた白い。三月に入っても朝はまだそれなりに冷えた。上着のポケットに手を突っ込んで足踏みする彼と自分のために、自販機で温かい飲み物を買ってやる。缶の側面で手を温めるようにして一口中身を口に含んだとき、銀色の車両が静かにホームに滑り込んできた。
「どこ行くつもりだ?」
「まだ秘密だ」
「……守衛さんが何も言わなかったから、司書には話してあるんだろうけど」
「もちろん、ぬかりはないとも」
花袋には旅の行き先をまだ話していない。そもそも、旅行に行くことを話したのもついさっき、それも、夜中にたたき起こして「荷物をまとめろ」とせっついたくらいで、詳しい説明はなにもしていない。呆れたように肩をすくめる花袋だが、それでもなんだかんだ独歩の言うとおりにしてくれている。無言の信頼に缶コーヒーのせいだけでなく胸が温かくなる。
乗り込んだ電車は五時前に東京駅を発った。十分も乗らずに品川で降り、すぐに小田原行きに乗り換える。ベンチシートに腰を落ち着けると、徐々に外が明るくなってくる。向かいの窓の外を見るともなしに視界に収める。都会のビルが減り、代わりに住宅街が広がりはじめていた。
「アンタはあちこち旅をしたが、住んだのは東京ばかりだったんだな」
「なんだよ、急に」
線路のがたつく音に負けないように、隣に話しかける。少し目が覚めてきたらしい、花袋は快活に応じた。
「さっきの話の続きだ。島崎のように別荘のひとつでも持っていれば、行き先に選べるだろう?」
「ああ。……まあ、俺もあと十年長生きしたら藤村みたいに湘南に別荘でも建ててたさ、きっと」
それから何かに気付いたように独歩をみて、考えるような仕草をする。
「ってことは、旅の目的地は俺じゃなくてお前に関係する場所ってことだな?」
「俺はアンタと違ってあちこち住んだからな。当ててみるか?」
「おう。武蔵野……じゃあないしな。鎌倉、はもう過ぎたし。あれ、広島だか、山口にも住んだことがあるんだっけか? けどちょっと遠いか——」
そんなときだった。
——次は、茅ヶ崎。茅ヶ崎です。
絶妙なタイミングで車内アナウンスが流れた。それを聞いた途端に花袋が黙り込む。
「ここじゃないぜ」
鼻白んだ独歩が否定するが、花袋はまるで聞いていないようにしばらく口をつぐんだままだった。
それから何度か乗り換えた。朝が来ると朝練の高校生がどやどやと乗り込み、また都会に近づけば人の乗り降りも激しくなった。なんとなく会話を再開する機会を失ったまま、列車は名古屋を過ぎ、大垣に停まった。既に昼近くなっている。朝から何も食べていないことを思い出して、乗り換えの間に二人してキヨスクに走って食料を買い込む。その後乗った新快速では席が見つからず、結局今日初めての食事にありつけたのは京都を過ぎたころだ。おにぎりやら惣菜パンやらを胃に流し込むように平らげて、腹が満ちると今度は急に眠気に襲われる。列車に揺られながら、独歩はなにか懐かしい夢を見たような気がした。
目を覚ますと花袋は起きて、じっと窓の外を眺めていた。人のまばらな車内にはすでに夕暮れの気配が漂っている。車掌の間延びしたアナウンスが、列車が兵庫まで来ていることを告げていた。独歩は寝たふりのまま、そっと花袋を盗み見る。そうしていると、前にもこうして二人で旅をしたことがあるような気がしてくる。実際には前世も今世も、こんなに遠いところまで二人で旅をしたことはない。どうしてそんな既視感を抱くのか、その理由を実は独歩は自分でよくよくわかっていた。
「俺はここにいるぜ」
久しぶりに出した声は喉に絡んで聞こえづらかったが、花袋にはちゃんと届いたらしい。はっとして花袋が振り向く。西日が彼の横顔を照らしている、きっと独歩の顔も西日に照らされている。人の顔をまじまじと見つめた後、花袋は悔しげに笑って視線を車窓へとずらした。
「なんだ、読んだのか」
「俺の日記を読んだんだから、おあいこだろう」
「お前には全部見透かされてる気がする」
「そんなことはないさ」
そんなことはない。と、もう一度声には出さず、独歩は心の中で繰り返した。
日が暮れた後も、列車は西へ西へと走り続けた。長い一日だった。二人がようやく鉄道を降りたのは既に日付が変わった後のことで、その日は小倉の駅を出てすぐの漫画喫茶で仮の宿を取ることにした。
翌朝はいくぶんゆっくりとした出発になった。といっても、前日と比べての話である。駅構内のファストフード店での朝食の後、一路南へ。
ホームにやってきたのは二両編成のワンマンカーで、車内は昨日よりもさらに閑散としていた。進むに従って停車時間が長くなり、特急列車が追い越してゆく。学生の乗り降りする時間が過ぎて、そのうちに車両内に二人きり取り残されてしまった。
それを良いことに独歩は窓を開ける。ぶわり、と気持ちのよい風が車内に吹き込んでくる。九州の地は、東京より数段暖かい。今日がとくに気温が高いだけかもしれないが、すっかり春の風をしていた。
「いいのかよ、開けちゃって」
「誰もいないんだからいいだろ」
独歩を咎めるのは言葉だけで、花袋もうれしそうだ。二人は開けた窓の傍に、子供のように靴を脱いでベンチシートの上にあぐらをかいて座った。
独歩は昨日は取り出さなかった一冊の本を、鞄の中から取りだした。それを見た花袋が眉をしかめる。
「持ってきてたのかよ」
「校訂してやろうかと思って」
「もう出版済みだ」
「じゃあ俺が持ってても問題ないな」
ぐう、と喉の詰まったような声を出す花袋。独歩は声を上げて笑う。窓から入る風の音と、車輪ががたがたいう音とで、はっきりしゃべっているはずでも声はどこか聞き取りづらかった。だが、それくらいが俺たちにはちょうど良い、と独歩は思う。
「アンタはなんでも本に書いたけど……でもそれは、アンタに似た誰かの話であって、アンタの話じゃないだろ」
「……」
「本には書いてない、アンタのことを俺は知りたい。アンタの話を聞きたいんだ。清と田邊の話でなく、アンタと俺の話を」
「……長くなるぞ」
「いいさ、時間はたっぷりある。——ほら、見えてきたぞ。佐伯の町だ」
海が近くなって、風に潮の匂いが混じり始めた。ようやく旅の終わりが見えてきた。いや、もしかしたら、これが旅の始まりなのかもしれない。
2019/02/24 或図書9のペーパーでした。裏側には元ネタの花袋九州旅行の地図を載せてました。


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