その日たまたま訪れた百貨店の催事場は、なにやらきらびやかな包装に包まれた甘い香りのする物体とそれを求める人々とで所狭しと埋まっていた。紳士物の香水を物色するために訪れた独歩だったが、その余りの熱気に本来の目的も忘れ、ふらふらとそちらへ近づいてしまったのはもはや見上げた記者魂とでもいうべきか。
近づいてみると、そこに並んでいるのは洋菓子の類いだとすぐに見当がつく。横文字のブランド名、果物やら洋酒やら多種多様のフレーバー、中には抹茶だのきなこだの和風のものも見受けられるがそれは変わり種のうちだろう。宝石箱もかくやという美しい箱に収まったそれを買い求める客のほとんどが若い女性であることもまた独歩の気を引いた。そうして一通り人混みを縫って回ってみたが、結局彼が知りたかった「これは何か」という疑問への回答は得られない。わからなければ聞けばいいとばかり、独歩は気負いなく、近くにいた客の一人に尋ねた。
「すみませんお嬢さん、少し伺いたいことが」
問いかけがやや時代がかっていたとして、彼の人心掌握術は現代でも問題なく通用するらしかった。初めこそ不審がっていた彼女も知性にきらめく双眸に見つめられ心地よい相槌に先を促されれば、日本語がお上手だけどもしかしたら外国の方なのかしら、などとでも思ったか、この現代日本國特有の催事について知る限りのことを教えてくれる。曰く、かつて愛する男女を導いた聖人の殉職日、準じて愛の告白日。そこに茶色い洋菓子が絡むのは些か脈絡がないように思えたが、なるほど女性達が真剣な顔で商品を選ぶわけである。
やがて小一時間ほどして百貨店を出た独歩の鞄には、当初買うつもりだった香水の代わりに、それによく似た箱入りの小さなチョコレートが一つ入っていた。
それから一週間余りの時が過ぎ、聖バレンティーノの殉職日はやってきた。直前まで渡そうかどうか迷ってはいたが、せっかく購入したものでもあるし、あのときの彼女も「最近は友チョコっていうのもあるんですよ」と言っていたし、不審な目で見られたとして最悪それを盾に躱すことも可能だろうと、独歩は思い切って朝食の席で花袋にそれを渡すことに決めた。
告白するつもりはなかった。それではなんのためのチョコレートかというと——実は彼自身もまだ、判別を付けかねている。愛だとか恋だとか、そういうものは自分たちの間にそぐわないような気もしたし、しかし彼をただの友人の地位に収めておくのは——例えそれが一番の親友の椅子であっても——なんだかもったいないような気がしたのだ。この洋菓子一つで何が変わるとも思わないが、なにか、そう、水面に投げ入れる石礫くらいにはなってくれやしないだろうか。それがどんな波紋を描くのか、それにこっそりと期待して。
朝食後の食堂で、本人の意思など知らず勝手に鼓動を速くする心臓の音を万が一にも気取られぬよう、独歩がいたって素っ気なく投げ渡したそれを、花袋は危うげなく受け取ってぽかんとした。
「なんだ、これ」
「チョコレート」
「……ふうん」
白い、煙草の箱を一回り大きくしたような箱に、金の箔押しの筆記体が優雅に乗った箱を、花袋は矯めつ眇めつして眺め回した。そんなに見たってそれ以上の何物でもない。愛の言葉が書いてあるわけでもない。中にごく小粒のチョコレートがたった四つ、お行儀良く収められているだけの箱。
花袋がどういう反応をするのか、それを一つも見逃したくない独歩は目を皿のように丸くし、耳をそばだて、じっと彼を見つめた。そんな視線をどう思ったものだか、花袋は視線を外しそっぽを向いてしまうが、ややもして口を開く。独歩の緊張は最高潮に達している。
「俺、チョコレートより羊羹のほうが好きなんだよな」
それを聞いた独歩が口を半開きにしてしばし固まったのは、概して正常な反応だろう。
「——お、まえみたいなやつはっ……マッチ箱でも食ってろ、ばーーーーーか!!!!」
勢い余って食堂を飛び出したはいいものの、部屋に戻るまでの間に当初の怒りは冷め、代わりにどうしようもない悲しみが独歩を襲っていた。
(……だめだった)
意味まで理解してもらえずとも、ただ笑顔で受け取ってもらえたらよかったのに、それすら叶わなかった。しかしそれで花袋を責めるのもお門違いだろう。自分の気持ちに整理も付けず、判断を相手に委ねるような真似をした自分が悪いのだ。どんなに綺麗な箱に入れたって、言葉もなしに伝わるものなどありはしない。しかし、では一体なんと告げればよかったのだろう。どんな言葉を添えたら、ただの洋菓子を宝石に変えることができただろう。自分の気持ちひとつ定かでないのに、花袋の気持ちを引きだそうだなんて、とんだ強突く張りだった。初めから、上手くいくはずがなかったのだ。
ぱたんと部屋の扉を閉めてしまえばそこにはもう自分一人の気配しかなく、そのことに気が緩んだのか、ぽろりと一粒、右の瞳からこぼれ落ちるものがあった。それが床に飛び散る前に——独歩の体は扉ごと前に突き飛ばされる。
「独歩!!」
内開きの扉に背を預けていたのだから当然、衝撃とともに床に投げ出されることになった独歩は、もはや文句を言うのも忘れてただ床に付いた手の痛みを訴えた。
「痛」
「あ、ごめ……」
突き飛ばしたものと突き飛ばされたものは狭い室内でしばし無言で向かい合う。……間抜けな画だ。あまりにあまりな状況が連続するせいで頭が思考を放棄していた。剥離した意識が却って客観的に彼我を観察し出す。だから、おや、と思った。たった数分前に別れたときよりも、花袋はやたらとくたびれて見えるのだ。もとからくせっ毛の髪は輪を掛けてぼさぼさで、服はあちこち引っ張られたようによれている。その疑問が態度に出ていたらしい、花袋はいやあ酷い目に遭った、と苦く笑ってみせる。
「あの後、あちこちから罵声とマッチ箱が飛んでくるし、中にはオイルライター投げつけてくるやつもいるし、白鳥に後ろから羽交い締めにされてる間に藤村がマッチ箱口に突っ込んでこようとするし」
まだぼんやりとした思考しかできないでいる独歩に、花袋がその手に何かを乗せて差し出した。扉を閉めるのに後ろに回しているとばかり思っていた両手だ。片膝を床についた花袋から、独歩はそれを恐る恐る受け取った。
深い紺色の、星空を模したパッケージの、それはやはり両手に収まるくらいの小さな箱だった。それだけだった。じっと目をこらして見ても、中身が透けるわけでもなく、愛の言葉が浮かび出てくるわけでもない。だが独歩にはその中身がわかった。
「チョコレート……」
「悪かったよ、あんなこと言ったのは。まさかお前がくれるとは思わなくて。驚いて、ごまかそうとして、間違えた」
そう言いながら彼はポケットからもう一つ、さっき独歩がやったばかりの白い箱をとりだした。受け取ってもらえなかったと思っていたその箱は、封も切られていない。
「開けてみてくれよ」
言葉は自然と出た。開けてくれないと始まらない。中身をわかっているつもりでも、ちゃんと開けて、見てくれないと。
「うん……。おまえも、開けてくれ」
二人はそれぞれに小さな箱の中身を開けてみた。
「なんか、宝石みたいだな」
照れくさいのか、またそっぽを向こうとする花袋の耳は、さっきと同様に赤かった。
(第2回花独ワンドロお題使用)


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