それは偶然というか、成り行きというか、不可抗力というか。――いや、心のどこかに「こうなればいい」という願望があったことも認めよう。
それにしても、決して此方が仕掛けたわけではなかったから、劉輝はいつもと違う角度から彼の顔を見つめながら、目を瞬かせることしかできなかった。
「も、――申し訳ありません主上っ!」
いつもならば絶対に聞くことはないだろう、慌てて微かに裏返った声音。それもそのはずである。
劉輝はこの有能で尊敬すべき宰相に、なんというかまあ有体に言うならば、
「まさか悠舜に押し倒される日が来るとは思わなかった……」
思わず呟いた言葉に、見上げた彼の顔が可哀想なほど真っ赤に染まった。
歩きながら考え事をする癖があることは、彼が同期の尚書二人に説教をくらっているという意外な光景を見かけて以来なんとなく心に留めておいてはいたのだが、まさか数歩の距離にある書棚へ本を取りに行くという些細な時間ですら、ふと思考の海に沈んでしまうほどの悪癖だったとは知らなかった。
目の前に立っているのだから気付くだろうと、声もかけずに近寄ってくる悠舜を眺めていたら、立ち止まる気配すらなく、衝突。
足の悪い彼が均衡を崩したのに、自分だけ立ち直って彼が固い床に身体を打ち付けるのを見るわけにもいかず、劉輝は甘んじて緩衝材の役目を請け負った。
打ち付けた腰が僅かに痛んだが、彼が倒れるよりはずっとましだったろう。いいことをした、と心中満足する。
状況としては非常に明快かつ単純。
だが、悠舜の頭の中はかなりの混乱を極めているようだ。劉輝にほとんど身体を預けるような体勢のまま、視線がうろうろと定まらない。
暫くしてからようやく彼の上から退くことに思い至ったようだった。
「ああっ、重かったですね、すみません」
「そんなことはないぞ。寧ろ軽い。悠舜はもっと肉をつけたほうがいいんじゃないのか?」
実際、体重のほとんどを受けている今でも、ほとんど負担は無い。
そういえば先日の政事堂での一件、羽羽殿から逃げるために(勝手に)悠舜を担いだときも、ほとんど逃げ足に差しさわりの無いような体重に危うさすら感じたほどだ。
彼は実際、ずいぶんと小柄だった。身体が薄いというのか。朝賀の席で、また、宰相位を授けるときに感じた存在感は、普段は微塵も感じられない。
その差異すら、彼の有能さを際立たせているのだが。
「あの……主上?」
「どうしたのだ?」
目と鼻の先の会話は、彼が吐いた息さえ届くようで、どことなくくすぐったい。
ぼんやりと間近にある悠舜の顔を見つめていた劉輝は、戸惑ったような声に意識を戻した。声音に違わず、細い眉が困惑のせいで下がっている。
「その、……手を離していただけませんか?」
言われて、はたと己の手の位置を確認する。
左手は床に投げ出されている。では右手は?
「――わ、悪い! そ、その、倒れたら大変だから、支えなければと思って……!」
慌てて離した右手は、その少し前までこれ以上なくしっかりと悠舜の背を押さえつけていた。
支えるというよりは抱き寄せるというほうがしっくりとくるような、まるで抱擁の最中、女性の腰に回された手のような仕種。
「いえ、ありがとうございます……」
苦笑しながら、悠舜はゆっくりと上半身を起こした。足が弱いせいで、あまり急に動くことができないのだ。
離れてゆく体温を残念に思いながら、劉輝も身体を起こそうとして、――固まった。執務室の扉が開いている。
「なにをしているのです、陛下?」
二人の視線が集まった先には、冷めた目でこちらを見下ろす吏部尚書の姿。
手には木扇を持っているだけで他に何もない様子から、仕事ではなく悠舜に構われに来ただけなのだろうが、それを指摘する勇気を劉輝は持ち合わせていなかった。
投げつけられた言葉は、辛うじて問いかけの形をしているものの、答えを望む通常のそれではない。
問いかけの先が劉輝一人の時点で、彼の含みが知れるというもの。
劉輝は恐る恐る現在の状況を確認した。
自分は肘を突いて身体を起こしてはいるものの、腰の上にはぺたりと悠舜が跨っている。
先ほどの背中を抱き寄せるような格好よりは幾分ましかと己を慰めてみるが、はっきり言って焼け石に水程度の差である。
悠舜はといえば、状況を理解しているのかいないのか、あどけない様子で仁王立ちの吏部尚書を見上げていた。
「あの、紅尚書! これは、違うのだ、ええと――」
「ああ黎深。それが、私が転んで主上を押し倒してしまって……」
どうにか上手い言い訳を考えようとして、さらりと後を引き継いだ悠舜に、劉輝は口元が引き攣るのを止められない。
……この人は。
態と言っているのだとしたらとんだ食わせ物だが、多分自覚はないのだろう。急激に膨れた殺気にも気付いているのかどうか。
のほほんと笑っている悠舜に改めて畏怖の念を抱くと同時に、如何にして悪鬼と化した吏部尚書から生き延びればいいのかを考えて、劉輝はげんなりと肩を落とした。
役得と思ったのだが、この仕打ち。世の中、そう上手くはいかないものらしい。


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