今日は茶州から久しぶりに帰ってきた同僚に会う用事がある――
そう言って、新年早々からの残業を満月が完全に昇り切る前に片付けた上司は、そう、昨日のその段階では確かに上機嫌であったはずなのだが。
翌朝、柚梨が出仕してみるとそこにはずーんと澱んだオーラを背負った仮面男が一人、まだだれもいない室で机に向かっていた。
――もっとも、仮面姿の得体のしれない戸部尚書の機嫌の具合を逐一察知できるのは、十年来の付き合いである柚梨くらいなものなので、傍目には常日頃と変わらないように見える。
とりあえず背中にしょった紫のオーラには気がつかないふりをして朝の挨拶を済ませた柚梨は、それとなく、できるだけ自然な切り出し方で、ごくごく気負いない感じで、続けた。
「昨晩は――」
続けたのだが、言えたのはそこまでだった。仮面の奥から漏れ出る負の気配がぐんと増したからだ。例えるならば、さっきまでのを庭院の鹿威しに差す泉の水程度としたならば、今度はさながら滝のごとき勢いで駄々漏れだ。
この上司、仕事上の辣腕やこの奇怪な仮面のせいで誤解されがちではあるが、実際は子供のように真っ直ぐな気性をしている。あんまり遠まわしに刺激するようなことを言うとそれがぽっきり折れてしまうのではないかと危惧して、柚梨は早々にそれ以上の言葉を継ぐのを諦めた。
「えーと……なにかありました?」
代わりに繰り出した率直な質問に、仮面の奥がちらりとこちらを向く。それをいいことに、柚梨は奇天烈だが繊細な作りの仮面に手をかけ、髪の後ろで結わえられた紐をしゅるりと解いてそれをはずした。本来の出仕の時刻まではまだ間がある、仮面の出番はそれまではない。
仮面の向こう側に現れた美貌に、流石に耐性の付いている柚梨ですらくらりときた。なんというか……壮絶である。ほんのりと気だるげな風情はきっと寝不足からで、額にかかったほつれ髪の一筋が色気を増幅している。美人は不調な時の方がかえって威力を増すらしかった。
そしてなにより、極めつけは、恨めしそうに柚梨を見上げるその瞳である。仮面を取り上げなければよかった、と、日頃の彼の奇装っぷりを心苦しく思っていることなど棚に上げて、その時ばかりはしくじったと思った。
「柚梨……」
「はいっ?」
ちょっと油断していたせいで、思わず返事が上ずった。しかし鳳珠はそれに気がつかないのかわざわざ指摘する気力もないのか、ぞっとするような上目遣いのまま柚梨に少し顔を寄せると、掠れる美声で囁いた。
「お前、手を抜いていたのか……?」
「は、はい?」
どきどきと跳ねる心臓を片手で押さえながら、柚梨は心持首をかしげて見せる。
「碁だ」
それから彼がとつとつと話し出した内容は、柚梨にしてみれば彼がそれほど落ち込むことなのかと疑問に思う内容で。
*
そんなこんなでその夜。二人は碁盤を挟んで対峙していた。
「別に手加減なんてしてませんって」
流石にもうあからさまな落ち込みムードを漂わせていることはなかったが、代わりにどこか理不尽だと彼の柳眉が訴えている。
朝の彼の話をまとめればこうだ。
柚梨がなかなか上手の碁打ちであることは意外と知られていない事実であるが、何の拍子にかそれが鳳珠の知る所になってから、彼が暇を見ては柚梨に勝負を持ちかけてくるようになってもう十年以上。柚梨の勝率は未だに七割を保っていたが、はじめの頃に比べたら彼の腕は見違えるほどに上達している。
それを、昨晩彼の古い馴染み――茶州州尹鄭悠舜殿に、あろうことか手加減された上の結果であると指摘されたらしい。
とんだ濡れ衣だ。手加減なんて誓ってしていない――と、柚梨は自分では思っている。ただ、柚梨もかつて手合わせしたことのある悠舜の言葉であるから、なんの根拠もないものとも思えず、あえてその可能性を探るとするならば……
碁笥に入った白石をぱらぱらと弄びながら、柚梨は言葉を選んだ。
「そうですねえ、もしかしたら」
二つ三つ、掌に移した碁石を手のひらで転がす。かちかちと冷たい音がする。
「ほら、あなたの碁は、とてもまっすぐでしょう?」
言い訳じみているかな、と思いながらも、柚梨は続けた。
「あなたは誤解されているかもしれませんが、私の碁はわりと卑怯ですよ。時と場合によっては不意打ちのようなことも平気でしますし、周到に罠を張ったりするのも得意です」
「……?」
何を言い出すのだろう、という顔で向かいに座った鳳珠がかすかに首をかしげている。
「ですけど、あなたと打ってますと、そういう自分の碁ができないんですよねえ。引きずられるというか、合わせたくなるというか」
「俺の腕に合わせている、と?」
「いえいえ、そうじゃなくて」
不機嫌そうに低められた声に慌てて手を振る。
「そういうことではなくて……ああ、言葉にすると難しいんですけど……。なんというか、こそこそしたことをするのがひどく悪いことをしているような気になって、真っ向勝負をしなくてはいけないと思ってしまうんです。もちろん、私の手だって実際はきちんとした戦略ですから、なんら恥じることはないはずなんですが。でも、つい、私もあなたと同じやり方で、受けて立ちたくなるんです。あなたがあんまりまっすぐだから」
これでは理由をすべて鳳珠になすりつけているようで、やはり彼とする碁と同じようにそれが気まずくなった柚梨は、曖昧に笑いながら付け足した。
「つまりは、私が自我を通せないということで、それはやっぱり私の弱さなんですから、悠瞬殿が手加減だというのは誤解なんですよ」
「……そう、なのか」
「そうですよ」
しばらく黙って考え込んだ鳳珠は、得心がいかないまでも理屈は理解したのだろう、もう一度、そうか、と小声で呟いた。
ああ、これで彼の信頼を取り戻すことができた――と、当初彼の気の落ち様を慰めるつもりで今夜盤上の遊戯に誘ったのも忘れて、柚梨はほっと胸をなでおろした。
のだが。
「それなら、相手のやり方だとかにこだわっていられないほどの状況ならば、お前は実力で勝負するということか?」
「えっ?」
彼の優秀な頭脳はずいぶん飛躍した答えをはじきだしたようだ。つまり、柚梨が手加減――のようなこと――をしてしまうのは、実力差から柚梨にまだまだ余裕がある故のことだと、そんな結論に至ったようで。
ずい、と自分の黒石が詰まった碁笥をこちらに差し出して、鳳珠が言う。
「お前が俺と勝負するのに余裕をなくすくらい、置き石をしろ」
ごまかしは一切許さないと、きつい視線が暗に物語っていた。有無を言う間もなくハンデつきの勝負を要求された柚梨は、馬鹿正直に鳳珠のために二つほど置き石をし、確かに相手の出方に合わせるなんて余裕もなく多少あざとい手も使いながら――それでもかつて鳳珠が黎深に味あわされたあの奇襲戦法よりは遥かにマシであったが――、なんだかんだできっかり六目の差をつけて勝利してしまった。
その事実に、かえって鳳珠が落ち込むことになったことは推して知るべし、である。


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