(『紅梅は夜に香る』よりも少し後、『緑風は刃のごとく』の時間軸内?)
窓格子の影が筆を持つ手に触れているのに気がついて、悠舜は顔を上げた。
直線的な模様の美しい影が、右手の上で陽炎のようにぐにゃりと歪んでいる。
書類仕事を始める前はまだ南中する前だった太陽が、今は西へと傾いでいた。影の位置がかわるほどずいぶん長い間机案に顔を埋めていたらしい。
集中力が途切れたのをいいことに、悠舜は硯に筆を置いた。
どちらにしろこの案件は主上に伺いを立てる必要があったから、今すぐに書類を仕上げるわけにもいかない。
軽く肩を解しながら周りを見やるが、室の中には誰もいなかった。主上に午後から城下視察の許可を出したのは彼自身だったので、それもそのはずである。彼の優秀な教育係と護衛もそれに追従しているし、侍官は用を言いつけなければ室内には入ってこないから、必然、執務室にいるのは悠舜だけだ。
小休止には丁度良い時間だったのだが、なんとなくこの室に自分以外の誰かを入れるのが億劫で、茶の用意を頼むのを躊躇ってしまった。
窓越しに注ぐ陽射しはすっかり春めいていて暖かく、花蜜を求めてやってきた小鳥の囀りは耳に心地よい。
静寂と言い切るには優しすぎる空間を、悠舜はずいぶん久しぶりに味わった気がした。
茶器の代わりといっては申し訳ないが、手持ち無沙汰であったので、机案の端に置いておいた羽扇を手に取った。
主上から下賜された、珍しい白孔雀の羽を使った扇である。
八色に染められた組紐がさらりと揺れて垂れ、軽すぎない金属の重みはしっとりと手に馴染んだ。
その羽扇はまるで十年、二十年昔から我が手にあったかのように違和感がない。
しかし、果たして十年前、二十年前に今を想像できたかというと――。悠舜はふと笑んだ。
もしかしたら、あの頃。
既に心のどこかでは、ぼんやりとではあってもこんな未来を思い描いていたのかもしれなかった。
***
特に何か用があったわけではない。
だが、彼が尚書令に就任してからこの方、気付けばなんとなく彼の執務室の方向へと足が向いている。
養い子の方向音痴がうつりでもしたかと考えながら、黎深は中に声を書けることもせずに執務室の扉を開け、そこで思わず立ち止まった。
机案で書き物に励んでいるとばかり思っていた悠舜が、羽扇を片手にどこかぼんやりとしていたからだ。
何か悩み事かと懸念が過ぎるが、遠くを見つめるその面差しは静かで、凪いだ海のように穏やかだったことに、人知れず安堵する。
悠舜は静かに心に澱をためてゆく性質だったから、昔も何も誰にも言わずに思い悩んでいた。何があってもそれを口に出そうとしない。全てを己の中で処理しようとする。
しかし、そうやって済ますには、降りかかる埃の量が多すぎた。だんだんと張り詰めてゆく横顔にどうすることもできなかったあの頃。
あの頃と今は違う。駆け出しだったあの頃とは違って、今は黎深も悠舜も地位や力を手に入れた。だから彼に降りかかる埃を払ってやることも、昔よりはるかに簡単ににしてやれるだろう。
そんなことよりも、彼はこんなにも優しい表情を、意識することなくできるようになった。
そのことのほうが何倍も大事なことであった。
しかし、それとこれとは話が別だった。
目前の光景のせいで、壁と扉に添えた両手に必要以上に力がこもっている。
廊下から顔だけを室に突っ込んで扉で挟み込むようなその姿勢は、彼があの吏部尚書だということも鑑みれば卒倒ものの光景なのだが、執務室の位置が宮の奥まった場所にあることが幸いした。今のところ、不幸な通行人は見当たらない。
黎深は常よりもさらに憮然とした表情で、室の中に気付かれないように小さく舌打ちした。
(悠舜め、王から貰ったものをあんなに大事そうに抱えおって……)
実際には、陛下から下賜されたものであるわけだから大事にはしているのだろうが、特に抱えこんでいるわけでは、もちろんない。しかし、無意識といった風にもう片方の手の指先が羽扇の毛先を撫でていく度に、黎深の顔は引きつった。
それだけならまだしも、僅かに視線を手元に落とした悠舜が浮かべた表情に、
(――くそっ!)
あまり美しくない独白を零して、黎深はとうとう室内に乱入した。
***
ぬくぬくとした陽気に絆され、気の向くままに遠い昔を思い返していた悠舜を現世に引き戻したのは、荒々しい扉の開閉音だった。
何事かと思い、ままならない足のことすら忘れて立ち上がろうとしたそれよりも速く肩をつかまれ、結局悠舜は椅子から立ち上がることができなかった。そこまでくれば闖入者の正体も明らかになる。
「……黎深、もう少し静かに入ってこれないのですか?」
嘆息して顔を上げた悠舜は、次の瞬間にはまた驚かされる。
すぽん、と右手の羽扇を抜き取られ、代わりに黎深が愛用している扇子を鼻先に突きつけられたからだ。
木目の美しいものを特に選りすぐって作られたと思しきその扇子からは、微かに香の匂いが漂う。
確かに上品で芳しい香りであるが、まさか匂いを嗅がせるためにそうしているわけではないだろう。彼の無言の行動の真意が分からず、悠舜は首を傾げた。
「どうしたんです? 何か……?」
「こっちを使え」
ず、っとさらに扇子を突き出され、その分悠舜は後ろに下がった。下がったといっても、背もたれがあるぶんたかが知れている。
こうしていても埒が明かないので、悠舜は暫く目前の扇と彼の顔とを見比べ、それから困ったように言った。
「返してください、黎深」
差し出した手に、悠舜が返却を求めていたほうではない扇子を乗せて、ようやく黎深は一歩下がった。
不思議そうに手の中の扇子を見つめる悠舜に、黎深は羽扇を弄びながらぼそりと呟いた。
「なに笑ってたんだ」
「……笑っていましたか、私?」
(――そういうことですか)
ようやく合点のいった悠舜は今度こそ苦笑した。
「いつから見ていたんですか。お世辞にも、覗き見は良い趣味とは言い難いですよ」
そのまま彼の姪のことまでからかおうとして、止めておく。あまり苛めすぎると本当に返してくれなくなりそうだ。
扇子を机案にそっと置いてからもう一度彼に向かって手を差し出した。
苦笑を少しだけ引っ込めて、言うことを聞かない悪ガキを相手にするよりは深みのある笑みを浮かべて。
「わかりますよね。それは《楯》たる私の、唯一の楯です」
まるで子供にするような、諭すようにゆっくりとした、しかし否とは言わせない口調に黎深は唸った。
「……だから宰相なんてやめろと言ってるんだ」
「ありがとう、黎深」
その手に羽扇を戻し、黎深はさっと踵を返す。
馬鹿らしいことをしてしまったと僅かに後悔したのもあったが、礼を述べたときの悠舜の優しい笑顔を直視できなかったというのが、実は大きかった。
(あ、兄上でもないのにこんな……!)
尊敬する兄の笑顔ならばともかく、一友人に対して何をこんなにも動揺しているのか、我ながら理解できない。
「ありがとう、私はこんなにも大切に思ってくれる友を持って幸せですね」
立ち去ろうとする背中に声を掛けられて、黎深は一瞬だけ立ち止まって、しかしそのまま振り返ることなく室を出ていった。
どことなくぎくしゃくとしていたような気がする友人の後姿を見送ると、室には再び静けさが戻ってきた。
紅梅が咲き、鶯が鳴く。
のどかな風景を窓越しに見つめながら、悠舜はそっと付け加える。
「――というようなことを考えていたから笑ってしまっていたのだと思うんですけどね……?」
玻璃に映ったその笑みは、まさしく黎深が盗み見たのと同じ、春の陽射しの笑みだったとか。


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