たった一晩で世界は変わってしまった。
 偽物と本物が入り交じった街で、本当と嘘が入れ替わる。スイッチを押したのは一体のアシストロイド——否、人間の矛盾を肩代わりして生まれた、パラドックス・ロイド。
 カインの世界もまた、彼に変えられてしまっていた。そのことに気がついたのは、あの夜から随分経った頃。
 はじめは、純粋な心配だった。
『待ち合わせするのは違う気がする』
 そんなことを言っていたから、きっとこの街のどこかでまたすれ違うこともあるんだろう。そう気楽に考えていたというのに、あれきりさっぱり噂を聞かない。仕事の合間を縫ってラスティカのラボに顔を出しても、オーエンの話は聞けなかった。ヒースクリフは今回のことで、カルディアシステム法整備に関する委員会のメンバーに選ばれてしまい、エンジニアはしばらく休業状態らしい。フォルモーント・ラボにまで押しかけるわけにもいかず、伝手のありそうなブラッドリーに世間話を装って話を振ってみても、そんなに暇ならパトロールにでも行ってこいと嗾けられる。

 もしかしたら本当にこの街を出て行ってしまったのかもしれないな。そんな風に考えるようになったのは、千年樹がすっかり青葉を茂らせる頃。
 カインの仕事は事件の前とさほど変わらない。市中を巡回して困っている人を助けたり、怪しい人物がいたら追いかけて職質したり。たまには捕り物や護衛任務も入ったりするが、概ね朝から晩まで外回りだ。
 千年樹の広場にはCBSCの代わりにアイスキャンディーのワゴンが並び、一時の涼を求めてワーキングクラスが列を作る。木陰が南風にそよぎ、さざ波のような音を立てる。
 オーエンは海を見ただろうか。
 木陰の下で額に浮いた汗を乾かしながら、ここではないどこかに想いを馳せる。砂浜に足跡をつけて、波打ち際を辿るだろうか。綺麗な貝殻や小さな生き物に心躍らせるだろうか。海水を舐めて、驚いて吐き出したりするだろうか。
 絵はがきの一つ、メールの一つでも送ってくれてもいいのにな、と小さく拗ねて、住所も連絡先も、なに一つ交換していないことを思い出す。
 蝉の声がすぐ耳元でして、はっとして仕事に戻る。そんなことが、何度かあった。

 フォルモーントシティに秋が来る。高層ビル群が落とした影に、千年樹が葉を落とす。
 黄昏に染まる街に、どこか見覚えのある細長い影。白い服と灰色の髪。大きな鞄。帰宅する人の波に逆らって、慌てて追いかける。名前を呼んでも聞こえないのか、彼は立ち止まらず、振り返らない。
 雑踏に紛れる直前、ようやく影の切れ端に手が届く。もう一度強くその名を呼んだ。
「オーエン!」
「——はい?」
 腕を掴まれた人物は、訝しむように振り返り、こちらが警官だと見て取ると、繭を下げて素直に困惑を表現した。純朴を絵に描いたような、大人しそうな青年だった。
「あの……お巡りさん、僕が何か?」
「いや、悪い。人違いだった。すまないな」
「はあ……」
 腑に落ちなさそうな青年を敬礼でごまかしつつ見送って、何事もなかったように来た道を戻る。秋の夕暮れは影が濃い。懲りずに人ごみの中を探している自分に気付いて、カインは淡く苦笑した。

 冬になると、にわかに仕事が忙しくなった。
 この時期は毎年そうだが、今年は特に忙しい。アシストロイド改正法の草案が国会に提出されて、概要が世間に明らかになると、急進派と穏健派、それに反対派がそれぞれ活発にロビー活動を始め、つられるように市民団体が集会やデモを開き出す。いつになく落ち着かない年越しになりそうだった。
「ただいま、……っと」
 誰もいない部屋は暗くて寒い。暖房をつけて、湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れて、ほっと息を吐く。情報端末をモニターに繋いで、適当なチャンネルをストリーミングする。
『千年樹の広場は、イルミネーションとプロジェクションマッピングの特別演出が今日までとあり、大変賑わっています。フォルモーントシティの四季をテーマにした今年の演出は——』
 たまたまつけたニュースチャンネルが映し出す、その光景に、目が捕らわれる。
 一面の薄ピンク色。
 ホログラムの花びらが、枯れ木に満開に咲いている。飛び跳ねる電子の魚。砕ける星。飛び出すCBSC。
 くしゃり、とカインは前髪を鷲掴んだ。まだ一年も経っていない。思い出にするには早すぎる。それなのにあの春の一夜が遠かった。オーエンが、遠かった。
「忘れたく、ないなぁ」
 自分にしたら随分弱気な声が出る。
 忘れられないもののことを好きというのだと、オーエンに説明したのが懐かしい。特別なんかじゃないと言い切った自分が懐かしい。
 アシストロイドとは違って、人間は忘れる生き物だ。忘れたくなくても忘れていく。今はまだ鮮明なあの夜の記憶が、いつか思い出になり、過去になる。カインが人間である限り。
 忘れられないもののことを好きで大事というのなら、忘れたくないもののことは一体なんだというのだろう。
 考えているうちに夜は更ける。冬は更ける。

 そうして、やがて、また春が来る。
 早朝のハイウェイを、カインはエアバイクで疾走していた。
 明け方届いた匿名のメッセージのせいだ。IDに見覚えはなく、名前は空欄。アバターは砕けた星のホログラム。メッセージといいつつ文章はない。ただ、画像が一枚だけ添付されていた。
 黎明の空と舞い落ちる桜を背景にした、食べかけのCBSC。
 返信は送信不可で突き返された。
「はあ!?」
 呼び出しなのか単なる自慢か。後者の可能性もあるなと思いついたのは部屋を飛び出した後で。
 千年樹が近づくにつれ、風に桜の花びらが混じる。頬を撫でる風は柔らかく、ほのかに春の匂いがする。空はもう随分明るい。夜明けがすぐそこに迫っている。
 ハイウェイを降りて、エアバイクの速度を落とす。人気のない交差点をいくつか曲がれば、千年樹の広場はもうそこだ。
 カインはエアバイクから降りると、ハンドルを押しながらゆっくりと広場に入った。二十四時間営業のCBSCのワゴンが一台止まっているのを横目に、まっすぐに千年樹の元へ。
 木の根元には、誰かが立っていた。
 夜明けの空を見上げている。いままさに、明けた空。金色の空だ。
 まるで待ち受けていたかのように、強い風が花を散らした。さあっ、と音を立てて花が散る。その一瞬の桜吹雪が止む頃には、彼はもう空ではなく、しっかりとカインの両目を見つめていた。
「覚えてる?」
 彼の第一声は、そんなだった。
「ああ」
 いつもの声が出せただろうか。
「特別になった?」
 次の問いかけには、笑みがこぼれてしまう。
 その質問に対する答えは決まっていた。
「いや、そういうんじゃない」
「……あっそう」
「そういうんじゃなくて、それだけじゃなくて、もっと——」
 ビルの隙間から差した金色が街を包む。
 二度目の春が来ていた。

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