目にはさやかに見えねども

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 昼下がりと言うには遅く、夕方と言うにはまだ早い、一日の中でも宙に浮いた時間帯。任務に向かった賢者と魔法使いたちはまだ帰っておらず、非番の者もおのおのの場所で過ごしているのか、魔法舎の中は奇妙に静かだった。もしかしたら自分のほかには誰もいないのかもしれない、とネロの脳裏によぎるくらいには。
(いい気なもんだ、人に夕飯の支度させておいて……)
 半分好きでやっている癖に、ついそんなことを愚痴りたくなるのも仕方ない。ちょうど夕飯の仕込みを終えたところだった。二十一人の魔法使いと、賢者、それに書記官夫妻を合わせた大所帯の食事の準備は、東の国の首都で料理屋を営んでいたネロにとってさほど難しいことではなかったが、それなりに手間と時間を要するのだ。もう少し自由な時間があれば——いや、それでもきっと、誰かに料理を振る舞っているのかもしれないが。
 ともあれ今日のところはそんな時間はなさそうだ。皆が帰ってきて、本格的に夕食の支度に取りかかるまで、ざっと一時間。部屋には戻らずに談話室のソファあたりで一休みしようかと、廊下を歩く。その間も誰ともすれ違うことなく、自分の足音ばかりがこつこつと反響した。
(本当に、一人っきり、か)
 調理の邪魔をしに来るブラッドリーがいない。腹が減ったとねだりに来るシノがいない。今日の夕飯はと控えめに尋ねに来るリケがいない。
 静かなことはいいことだ。いいことのはずだった。それが、魔法舎で集団生活を送るようになった弊害だろうか。静寂が、かえって違和感となってネロの心に押し寄せる。
 人嫌いの東の魔法使い、そう呼ばれることになんの疑問も持たなかった自分が、今更そんな風に思うだなんて、全く信じられないことだった。
(馬鹿らしい……)
 いつの間にか、談話室の前までたどり着いていた。半開きの扉。扉の向こうも静かである。再び湧き上がってきた感情を気のせいだとやりすごし、扉を引く。その先で。
 ネロの琥珀色の瞳が人影を捉える。金色と、前髪の向こうに隠れた赤。色違いの瞳がこちらを見つめていた。だが奇妙なことに、二人の視線はまっすぐとはぶつからなかった。
「誰だ?」
 問われて、ようやく思い至る。そういえば、今日はまだ彼に触れていなかったな、と。《大いなる厄災》のせいで、相手に触れるまでその相手を認識できないというやっかいな傷を負った彼。中央の国の元騎士団長。大概毎朝、食事の前に手なり肩なりを叩き、彼の視界に映るようにしてやるのがここの魔法使いのならいになっているのだが、ネロは朝食の準備の関係上、たまにそのタイミングを逃すことがある。今朝もそうだった。
 姿の見えない誰かと同じ部屋にいるのはさぞ気味が悪いだろう。彼にしてみたら、正面の扉が誰もいないのに勝手に開いたように見えたはずだ。せめて先に、自分だということを知らせてやるべきか。
 だが、ネロが名乗りを上げるより先、カインが再び口を開いた。
「ネロだな?」
 確信的な声音。ネロはかすかに目を見張る。
「……ああ。よくわかったな」
 トストスとカーペットの上をなるべく足音を立てて近づいた。読み止しの本にしおりを挟んだカインが、ネロに向かって手を差し出す。その手を叩くと、ようやく視線がひたりと合った。彼は人好きのする笑顔でネロに微笑みかける。
「わかるさ」
「ああ、さては俺だけだったか、今朝会わなかったのは」
 少し考えて、そう推理した。斜め向かいのソファに腰を下ろす間に、顎に手を当てて思い出すような仕草をする彼。
「そうだったか? 覚えてないな」
「じゃあなんでわかったんだよ」
 カインは種明かしを楽しむように、さらに笑みを深くした。
「簡単。パンの焼ける匂いがしたから」
「そうか?」
 彼の満面の笑みとは裏腹に、ネロは半信半疑だ。
 すん、と自分の服の襟元を引っ張って匂いを嗅ぐ。鼻が匂いに慣れきってしまっているのか、自分ではそれとは分からない。だが言われてみれば、確かにさっきまで、焼き窯からパンを取り出していた。夕食用の白パンではなく、それとは別に保存食用の黒パンを、ネロは時たま仕込みの間に作り置くことにしている。非常時のためと言うと大げさだが、真夜中に腹を空かせて眠れないと訴えてくる、幾人かの若い魔法使いのために。
 この騎士様はその匂いでネロを識別したと当然のように言うが、パンの匂いなんて調理場からずっと離れた談話室まで匂ってくるはずがない。ネロだけでなく、ほかの魔法使いだってきっと気づきやしない。そんなことができるのは、視覚以外の五感で不足を補う必要のある、彼くらいのものだろう。
「やっかいな傷だよな」
 ふとこぼした言葉は、会話の切れ端というよりは単なる感想に近かったが、カインはそれを律儀に拾った。
「ん? いや、そうでもないよ」
 あっけらかんとした態度を崩さない彼に呆れた。そうかい、と流すこともできたのに、言葉を連ねてしまったのは、さっきまで見ていた景色が、未だ脳裏から消えずにいたからかもしれない。
 音のしない調理場。がらんとした食堂。一人きりの廊下。誰もいない魔法舎。
「だって、見えないんだろ、触るまで。俺だったら、そうだな、人を避けて暮らすのにいい機会だって逆に利用するかもしれないが、……俺と違ってあんたは、賑やかなのが好きだろうから」
 ネロは想像する。魔法舎の中だけではない。人気のない広場。無人の王城。船が浮かぶだけの運河。穂を刈る人のいない麦畑。そこに立つたった一人が、目の前の赤毛の騎士様だと思うと——それはなんだか、とても不似合いで、不釣り合いで、ネロを落ち着かない気持ちにさせた。
「ああ……」
 そんなネロの様子を、どう思ったのか。カインは微苦笑を一つ浮かべ、長い足を組み直すと、改めてネロに顔を向けた。いや、違う。彼の双眸はネロを通り越し、その後ろにある出窓から見える、外の景色に向けられている。
「そう、だな。あんたが言うように、毎朝目が覚めたばかりの俺の視界には、確かに誰も映らない。顔を洗って身支度をして、誰もいない廊下を抜けて……って、まだ早いから、俺の目が普通でもきっと誰の姿も見えないだろうけど。でも魔法舎の周りを一周して戻る頃には、何人かが起き出してるのが分かる。分かるんだよ、見えなくとも。賢者様がおはようって挨拶してくれる。羊の姿が見えたら、きっと近くにレノックスがいる。朝からバタバタとうるさい足音は、たぶんムル。薬草園の葉っぱがきらきら輝いているのは、ミチルが水をやっているから。どこかの部屋の窓が開く音。聞こえてくる鼻歌はクロエかな。それから、風に乗って漂ってくる、いい匂い。ネロ、あんたの作る朝飯の匂いだ」
 話している最中、終始優しい笑みを浮かべていた彼の瞳が、再びネロに向けられて、にこりと細くなる。
「だから、俺はちっとも寂しくないんだよ、ネロ」

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