首輪付き

2,444 文字

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 その日最後の客は、肩に提げていた荷物を置いて、カウンター席に腰を落ち着けると、ため息というにはささやかな、だが吐息というには重すぎる、意味深な呼吸をそっと零した。
 それを見逃す酒場の主ではない。こと、ベネットの酒場の主は。
 つまみの皿とグラスとをカウンターの上に並べてから、シャイロックは自らも離れた席に腰掛けて、愛用のパイプを取り出した。火をつけて紫煙を燻らせる間に、相手がグラスの中身で喉を湿らせる。チーズを薄切り肉で巻いたピンチョスが一つ二つ、青年の胃に消えてゆく。今度こそ大きなため息をついた彼——カイン・ナイトレイに、シャイロックは笑いかけた。
「随分くたびれたご様子で。一体どんな素敵な夜遊びを?」
 実直な青年である彼は、肩をひとつすくめて否定する。
「いや、護衛の仕事でな。組んだ相手が……その、お世辞にも腕がいいとは言えないやつで、結局俺一人で全員の面倒を見ることになってしまって。参ったよ」
 先頃賢者の魔法使いの仲間になった彼は、二十歳そこそこで中央の国の元騎士団長という異例の経歴の持ち主だ。元、という但書が示すように、今はもう騎士ではない。ばかりか、中央の国に居づらくなって、ここ最近はあちこちの国を雇われ兵士をしながら放浪していると聞いた。行き先が西の国となれば、たまにこうして仕事終わりに店に顔を出す。
「およしなさいな、傭兵の真似事なんて。あなたには向いていませんよ」
「しかし、先立つものがないと、剣やブーツの手入れもままならない」
「あなたなら、養いたいと申し出る方がわんさかいらっしゃるでしょうに」
 思わせぶりな笑みと流し目にも、カインはたじろがない。口に酒を含みつつ言葉の意味を吟味している。
「養う……? ああ、どこかの貴族に仕えるということか? それも考えなかったわけじゃないんだけどな」
「へえ?」
 百点、とは言いがたい回答だったが、その中身はシャイロックの気を引いた。英雄と呼ばれた騎士団長が、いったいどこの貴族の鈴付きに? 面白い冗談を聞いたとばかり笑みを深くするシャイロックに気づかずに、カインは頬を掻き掻き苦笑する。
「だが、どうも上手くいかなくて。やっぱり、魔法使いというのがよくないのかな」
「と、いうのは?」
「ほら、俺は、魔法使いだってことがばれて騎士団をクビになっているだろう? それが広まっているらしくて。うちに来ないかと誘われることはよくあるが、名前を名乗ると皆一様に口ごもってすぐに手のひら返しだよ。今まで、こうあからさまな扱いをされたことがなかったからピンと来なかったが、魔法使いへの偏見というのがこれほど根深いとはな……」
 そう言って寂しげに微笑む横顔は、妙齢の女性が悲鳴を上げて倒れかねない風情があった。だが、残念ながらここにいるのは百戦錬磨の酒場の主ただ一人。同情を買うにも高すぎる相手だ。
 シャイロックは再びパイプに口をつけた。ゆっくりと煙を味わう間に、スツールに座る青年の頭の上から靴の先までを鑑賞する。さすがにその視線には気がついたカインが、なんだ?と身じろぎするので、シャイロックは遠慮なく笑って言った。
「別に、取って食おうというわけではありませんよ。……あなたの騎士服、素敵ですよね。鞘の意匠にも合っていて、お互いに引き立てるよう。中央の騎士団の制服ですか?」
「いや、さすがに騎士団を追われた身で、制服は着られないよ。剣は、国王陛下に下賜されたものを使わせてもらってるが」
「それでは、どこでお見繕いに?」
「これは、貰い物なんだ。とある方に、餞別にと頂いた」
「そうでしたか」
 一つ頷いて、シャイロックはくるり、とパイプを指の上で一度回した。これが、それはさておき、の合図であることを、新参者のカインはまだ知らない。
「ところで、カイン。もし、あなたの前に、とても魅力的な女性が現れたとして」
「な、なんだ急に?」
「現れたとして。その方が、他人が選んだドレスを着て、他人が与えたブーケを持っていたとして、あなたは求婚されますか?」
 強引な話題転換に、一度は目を丸くしたカインだが、質問には真剣に考えるそぶりを見せる。両手で包んだグラスの水面に目を落とし、思い浮かべているのは誰の姿か。架空の女性? 人気の女優? あるいは、心に思う誰かの姿を?
「それは……どんなに魅力的だろうと、他に相手のいる女性を、横から掻っ攫うような真似はしないさ。そんなのは、誠実じゃないからな」
 考えた末に言い切ったカインに、シャイロックは微笑んだ。
「あなたはとても誠実な方なのですね」
「ああ、常にそうありたいと思っている。それに、そういうことはお互いの気持ちあってのことだろ? 誰かの選んだドレスを着て、ブーケを持ってる時点で、きっとその人はもう、その誰かのことを選んでるよ」
「……」
「……」
「……」
「……?」
 たっぷりとした沈黙があった。シャイロックはその間、黙って微笑み続けた。カインの手の中のグラスの氷が体温で溶けて、カランと音を立てるまで。
「あなたのそういうところが好きですよ」
「えーと、ありがとう?」
「どういたしまして」
 にこり。最後にダメ押しの笑みを押しつけて、シャイロックはパイプの灰を灰皿に落とす。これが会話の終わりの合図であることも、カインはまだ知らないだろう。
「さあ、もうお休みになっては? 私もそろそろ、店を閉める準備をしなければ」
 立ち上がって、カウンターの中へと戻るシャイロックを目で追って、カインは不満げだ。
「もうそんな時間か?」
 まるで遊び足りない少年のような不平には心がくすぐられたが、弟を叱る兄になったつもりで忠告する。
「お忘れですか? 迂闊なひと。今宵は新月です」
 二人の視線が天井を向いた。見えるはずもない何かを探すように。
「あと半月もしたら、お出ましになりますよ。美しく、禍々しい、ムルの想いびとが」
「ああ、……そうだったな。俺も、魔法舎に戻らなきゃ」
 ベネットの酒場も、しばしの店仕舞いだ。
 次の満月が沈むまで。

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