氷の城

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 ここは寒い。凍えそうに寒い。
 冬でも滅多に雪の降らない中央の国、そのなかで最も尊い血の流れる一族が住まう城。そんな場所が寒いはずがないのに、アーサーはいつも比べてしまう。
 あの城はここよりずっと暖かかった。
 煌びやかなシャンデリアを見てはランプに灯された小さな火を、躓きそうに毛足の長い絨毯を踏んでは古い毛織りの敷物の手触りを、豪華な食事を並べられては不格好なホットケーキの味を、思い出さずにはいられない。
 一晩中燃え続ける暖炉は、北の厳しい寒さに慣れたアーサーには少し息苦しい。部屋付きの侍女に何度頼んでも「殿下がお風邪を召されては大変ですので」と火を消すことは許されなかった。自分で消した翌日には侍女が別の者に変わっていた。責任を問われたのだと思い当たって、アーサーはもう暖炉の火を消すことを諦めた。
 アーサーは侍女の名前を知らない。前の侍女の名も知らなかった。料理人も、掃除婦も、植木職人も、いくら問うても「恐れ多いことです」と名乗らない。自分のために働いてくれる彼らの名前が知りたいとヴィンセント叔父に掛け合ったが、もらったのは国内の有力貴族の名簿だった。下働きの名前を覚えるくらいならこちらを覚えろということらしい。この城にはたくさんの人が働いているのに、名前のある人は驚くほど少ない。
 もしかしたらこの城には、人の名前を消す呪いでもかかっているのかもしれない。であれば、アーサーもいずれ名前を失うのだろう。殿下、殿下と呼ばれすぎるせいで、そのうち「デンカ」が本当の自分の名前になってしまいそうだ。そうなってしまっても問題ないから、この城の人々はアーサーの名を呼ばないのだろう。この城にアーサーは必要ないのだ。必要なのは、中央の国の王子という役割だけ。
 この国に帰ると、選んだのは自分だ。だから泣き言は言うまいと決めていた。それでも、ふとした瞬間に思い出す。暖炉の火の代わりに分け与えられた体温を。たった二人しかいない広い城を。不器用にアーサー、と呼ぶ声を。
 ここは寒い。凍えそうに寒い。
 暖をとる方法もわからぬまま、アーサーの心は日に日に冷えた。

 今朝もアーサーは泣きながら目覚めた。このところ毎日のように、目が覚めると泣いている。よく暖められた部屋で、最高級の寝具にくるまって、何一つ憂うことのない環境にいながら、なぜ夜ごと涙が出るのか。知らぬうちに悪夢でも見ているのか。
 アーサーはベッドから降り、掃き出し窓にかかる分厚いカーテンをわずかに開けた。夜は明けているが朝日はまだ低い位置にある。侍女が起こしに来るのはまだ先だ。ガラス越しの冷気に誘われるように、シルクの夜着に裸足のまま、アーサーはそこからバルコニーへと出た。泣きながら目覚めた朝は、そうするのが日課になっていた。
 冬の中央の国は晴れの日が多い。例に漏れず今日も良く晴れている。雪の気配はなく、空気は乾燥している。吐く息が白い。息を吸うだけで肺まで凍り付きそうになる北の冬とは比べものにならないが、薄着一枚でいると少しだけあの地の寒さに近づいた気がした。すぐ隣に死の気配がする。そのことが心地よい。
 普段ならしばらくそうしているうちに満足して部屋へと戻るのだが、今朝はなかなか踏ん切りがつかない。もう少しここに留まっていたいという気持ちから、アーサーはいつもより一歩、バルコニーの手摺りに近づいた。
 アーサーの部屋は最上階にあった。高所から見下ろす世界は広く、地面は遠い。一歩近づいたことで、普段は視界に映らない地上が目に入る。ふとアーサーは、もう一つの城のバルコニーでの出来事を思い出した。まだ拾われて間もない頃。初めて高所から見下ろした白銀の世界。一面に積もった雪はやわらかそうで、ここから下に飛び降りたら楽しかろうと、好奇心が赴くまま、抱えた人の腕から抜け出して手摺りの向こう側へと飛び降りたことがあった。もちろん地面に墜落する前に魔法ですくい上げられ事なきを得たが、あれからしばらくバルコニーに出してもらえなくなったのだった。
 ひるがえって、今、この地には雪がない。眼下に広がるのは幼き日にアーサーが飛び降りてみたいと思った景色ではない。なのにどうしても地上から目が離せない。手摺りの向こうに飛んでみたいという衝動にあらがえない。
 もちろんアーサーは魔法使いで、箒がなくとも宙に浮くことくらいはできてしまうだろう。でも、……でも、もしかしたら魔法が失敗することもあるかもしれない。この城に来てから、魔法を使う機会はめっきり減った。久々に唱える呪文は、舌が回らないかもしれない。冷えて悴んだ心では、うまく魔法が使えないかもしれない。
 もし、そうだとしたら。
 そうだとしたら、なんて、——————

「アーサー!!」

 氷が、割れた。
 世界と自分との間に張っていた薄氷が、ぱりん、と涼やかな音を立てて割れる、そんな幻想を見た気がした。
 両手はいつの間にか手摺りをぎゅっと掴んでいた。裸足のかかとが宙に浮いている。アーサーは意識して、ゆっくりとかかとを大理石の床につけた。
「あっ、違った! アーサー殿下!!」
 氷を割った声が今更言い直す、その頃には、手摺りから手を離すことができた。階下から見えないところで何度か手を握り直し、手の感触を確かめる。すっかり冷えた指先は、かすかに震えていた。
 そんなことはおくびにも出さず、アーサーは眼下に声を落とす。この城でアーサーが名前を知る、数少ない人物。
「カイン。おはよう」
「おはよう!、ございます!」
 赤い髪を一つに縛った彼は、以前大広間で顔を合わせたときよりも随分軽装で、こうして話している間も軽く足踏みを続けている。朝の鍛錬の途中なのだろうが、この城で足踏みをしたままアーサーと話す人などいなかった。皆かしこまって、顔も上げず、うつむいたままアーサーと話した。なのに彼はどうだ。そういえばあの顔合わせの時も、カインははじめから顔を上げていた。そして今も。
 投げかけられるのは、なんの含みも、裏もない、まっすぐな声。
「今日は寒いですね!」
「ああ、寒いな」
 会話はたったそれきりで、じゃあ、と一言を残して彼は走り去る。後ろ姿を見送ってから、アーサーも室内に戻った。
 普通を演じられたのは、窓を閉じるところまでだった。
 閉じた窓に背中を預け、ずるずると座り込む。暖かな室内に戻っても、まだ指が震えている。止まったはずの涙がまた頬を濡らした。抱えた膝に顔を押し当て、乱暴に涙を拭う。拭っても拭っても、涙はあとから流れ出す。
「ああ、寒いな……」
 寒かった。凍えるほどに寒かった。
 寒いと言ってもいいのだと、このときまでアーサーは知らなかった。
 悴んだ心に差し出されたぬくもりが、どれほどアーサーを暖めたのか、きっと彼は知らない。一生知ることはないのかもしれない。
 アーサーだけが知っている。
 そのぬくもりの名を、「救い」というのだと。

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