悪い夢

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3

 深夜、目が覚める。
 心臓が割れそうな速さで鳴っていた。吐く息が荒い。背中をじっとりと冷や汗が濡らしている。ベッドの上で微動だにできず、目だけであたりを確認する。白い壁紙がぼんやりと視界に浮かんだ。使い慣れた机と本棚。ソファ。魔法舎の自室だ。どこからか、小夜啼鳥のか細い声が聞こえてくる。そして再び、静寂。
「……ゆ、め」
 呟いて、体を起こした。からからに乾いた喉からは、老人のような嗄れた声しか出てこない。心臓の鼓動は徐々に落ち着いてきているが、不安は時が過ぎるにつれて増すようだった。誰か。目が無意識に人の姿を探していた。今頃は皆、部屋でやすんでいるはずだ。それでも、誰か。オズ様。賢者様。カイン。
 カイン。
 その名を思いつくと、もうそれしか考えられなくなる。
 ——いつだったか似たようなことがあった。彼がまだ騎士団長だった頃。アーサーがまだ中央の国に帰って間もない頃。恐ろしい夢を見た夜、彼が寝ずの番の時には、こっそりと扉を開けて彼に会いに行った。本当はオズが恋しくて、でもそれを口にすることは許されなくて、途方に暮れたように立ち尽くすアーサーを、カインは何も言わずに隣に招いて相手をしてくれたものだった。
 だから、今も咄嗟にカインの顔が思い浮かんだのだ。幸い彼の部屋はすぐそこで、寝ずの番はしていなくても、アーサーが声を掛ければ目を覚ましてくれるだろう。甘えている、という自覚はあった。でも今は、恐怖心が自制心を上回っている。確かめたかった。ちゃんと彼がそこにいることを、あれがただの悪い夢であることを、確かめずにはいられなかった。
 ベッドを降りて靴を履く。扉を開けて廊下に出る。窓のない廊下は常に明かりが灯っていて、アーサーの目をくらませる。目が慣れるのを待っていると、ひんやりとした空気が寝汗を冷やしていく。足音が響かないように、アーサーは足早に二つ隣の部屋の前までやってくる。
 ドアノブのすぐ横あたりを細かくノックする。できるだけ音を立てないように、でも確かに伝わるように。
「カイン……カイン、入れてくれ」
「アーサー?」
 扉を開けたのは、応えとほぼ同時。彼が部屋に鍵を掛けていないのはわかっていたから、返事がなくてもかまわず開けるつもりだった。返事があったことには僅かに安堵して、それでもまだ不安が残る。
「カイン……」
 細く開けた扉の隙間から廊下の明かりが差し込んで、部屋の中に細長い道を作った。道はまっすぐにカインのベッドへと続いている。ベッドの上では体を起こしたカインが、洩れる明かりに目を細めていた。片手はベッドサイドの剣を取ろうとしている。
 彼の姿を視界に収めて、アーサーはようやく肩の力を抜いた。目が覚めてから今までずっと上手くできなかった呼吸が、やっと楽にできるようになった。
「ああ……よかった、カイン」
「どうした? 何があった?」
「何も。何もないんだ。もう大丈夫。だから剣は取らなくて良い。……ただ、少し、」
「すまない、アーサー」
 カインの声がアーサーを遮る。剣を取るのを止めた手が、アーサーに向かって差し伸べられる。
 次の言葉に、戻り書けていた体温がざっと音を立てて引いていった。
「こっちへ来て、手を触ってくれないか」
「……っ」
 足が動かない。声も出せなかった。

 夢を見たのだ。悪い夢を。
 自分を残して世界から人が消えてしまう夢。
 ただの、悪い、夢。

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