「あまい」は「きたない」。
「きれい」は「まずい」。
オーエンのそう短くはない生において、彼が独自に獲得した教訓のひとつである。
スポンジに真っ赤な木苺のソースをびしゃびしゃに回しかけ、フォークでぐずぐずにしたのを口にしながら、これもそう、とオーエンは心のメモに書き付ける。ばらばらに引き裂かれた小鳥の内臓みたいなのに、とても甘くておいしい。形を崩せば崩すほど、ソースがやわらかなスポンジに染みこんで、噛んだときに口の中いっぱいに甘酸っぱい味が広がる。こんなにぐちゃぐちゃなのに、とびきりにおいしい。
「うわ」
通り過ぎざまこちらの皿を見下ろしたブラッドリーが、露骨にいやそうな顔をした。声に出すつもりはなかったのか、オーエンが見つめるとふいと視線を逸らされる。彼はしばらく食堂中を見渡してから、やや逡巡し、やがて諦めたように向かいの席に腰を下ろした。本当は別の場所に座りたかったのだろうが、あいにく向こうには中央の魔法使いたちに囲まれるようにしてオズが陣取っている。その反対側には西の魔法使いたちが。広いようでいて、この時間の食堂に空席は思うより少ない。
席に座ってまでげんなりとした顔をしているから、オーエンはこれ見よがしに、皿に残ったスポンジをフォークの背で潰し、染みたソースを絞り出しては再び吸わせた。ぶちゅぶちゅ、じゅうじゅう。スポンジの悲鳴は、死人が口から泡を吹くときの音に似ている。ブラッドリーがさらに顔を顰めたのに、オーエンますます笑みを深くする。
「なあに? 何か文句でもあるの?」
「別にねえから黙ってさっさと食え」
「さっき『うわ』って言った」
「気のせいだ」
腹が空いているのか、ブラッドリーは会話を打ち切りたいらしい。自分の皿にナイフとフォークを突き立てる。彼の朝食は分厚いベーコンとその上に乗った半熟の卵だった。なんだったか、そう、賢者の世界ではこれを『目玉焼き』と言うのだと、聞いてもいないことを教えられたことを思い出す。
オーエンはフォークを持った手を止めて、ブラッドリーの皿の上を注視した。つやつやとした黄色い目玉。夏の花みたいな、カナリアの羽みたいな、柑橘の皮みたいな、黄色いそれにナイフが刺さる。とろりと中身があふれて広がる。
あまりにじっと見つめていたせいか、ブラッドリーは怪訝な顔をして手を止めた。
「なんだよ、やけにじろじろ見やがって。これ、食いたいのか?」
「ううん、いらない」
だってオーエンは知っている。
「あまい」は「きたない」。
「きれい」は「まずい」。
すでに魔法舎の全員に知れるところであるミスラの悪食ほどではないが、実はオーエンにもややその気があった。食べられるものとそうでないものの見分けがつかない。そのために、何であれ食べたいと思えば口に入れてしまう。
そもそも力の強い魔法使いにとって、食事はさほど重要ではない。料理やそれを作ってくれる相手が身近になく、あえて口にするものといえばマナ石くらいとなれば、人間目線の「食べ物」の基準などまるで意味がないものだった。
口にものを含むという行為は、オーエンにとって嗜好そのものである。であれば、好ましいものを口にして、そうでないものは口にしたくないというのはごく当たり前の欲求だった。
夏の花もカナリアの羽も柑橘の皮も、オーエンは口にしたことがある。そして幻滅した。これなら食べないほうがよかった。飾って眺めていた方がよほどよかった。そんなことが何度かあって、「きれい」なものは「まずい」のだと、やがてオーエンは理解した。そこがミスラとは決定的に違う点だ。理解してから、オーエンはやたらとものを口に入れることをしなくなった。だからかつてオーエンにあったその癖は、魔法舎の誰にも知られていない。
スポンジの最後の一切れを胃の中に収めてしまって、オーエンは満足のため息を漏らす。その様子を、向かいでこちらもいつの間にか朝食を平らげたブラッドリーが、呆れを隠さずに眺めている。
「ひっでえ有様だ。三つのガキでももう少しマシに食うだろうに」
皿の上はさながら小鳥の殺害現場のように、飛び散ったソースとスポンジの欠片で汚れている。皿どころか、机の上も、服にまで、赤いソースが飛び散ってまだらに模様ができていた。
「顔にもついてんぞ」
指さされて、見当をつけたところを手でこする。ぬるり、真っ赤なソースが手のひらをべっとりと汚した。まるで生き物から滴る血そのもののよう。穢らわしいはずのその色彩が、そうではないのだと、今のオーエンは知っている。
どろどろした茶色のチョコレートも、肉色をしたべちょべちょのジャムも、最初は口にするのも躊躇われた。食べ物とそうでないものの違いが分からなかったとしても、決して口に入れてよいものとは思えなかった。それがいつの間にか、オーエンの好物になっている。「あまい」ものは得てして「きたない」見た目をしているものだと、オーエンはもう知っているのだ。
ゆっくりと、汚れた手のひらに舌を這わせる。
「ふふ、あまい」
そう呟いたオーエンに、ブラッドリーはもうなにも言わなかった。
「オーエン」
朝食を終えて、食堂を出ようとしたオーエンを、背後から呼び止める声がある。振り返れば、早足でこちらに向かってくるカインの姿があった。さっきまで別の席に着いていて、オーエンのことなど気付いてもいなかったようなのに、ちゃんとこちらの姿が見えていたらしい。まあ、彼の《傷》の唯一の例外として、当然のことかもしれないが。
「ちょうど良かった! ちょっと来てくれ」
「どうして?」
「時間がないんだ、早く」
そう言って、呼び止めたくせにさっさと先へ行ってしまう。こうなると、勝手に立ち去るのも違う気がして、言うとおりについて行くほかない。
「このあと中央の国のみんなで任務の予定があってな。朝食後すぐに向かうというのを無理言って抜けてきたんだ。悪いな、急がせて」
「いいよ。つまらない用事だったら殺すけど」
「それは大丈夫だ! 保証する」
目の前で跳ねる赤い髪。しっぽのようなそれが左右に揺れるのを、オーエンは視線で追いかける。
誰もが遠巻きにする北の魔法使いオーエンのことを、この男はなぜか怖がらない。同じようにオズのことも怖がらないから、たぶんどこか頭のネジがイカれているんだろうと思う。
「おまえ、このところ魔法舎を留守にしてただろ? その間に、バレンタイン、今年もやったんだ。覚えてるか?」
歩きながらのカインの話に、オーエンは、そういえば去年もこの時期にそんな催し物をしたなと思い出す。詳しい話は忘れたが、賢者の世界由来の、チョコレートを贈り合うというイベントだ。
オーエンがここ数日魔法舎に姿を現さなかったのは事実だった。なんということはない、いつものミスラとの諍いで、殺されて死んでいた。やっと息を吹き返して、久しぶりに朝食にありついたのが、今日。
「覚えてるよ」
いやなことを思い出させてくれる。
オーエンの声が一段低くなったことにも気がつかず、カインは呑気に続けた。
「よかった。それで、今年は俺もみんなにチョコレートを用意したんだが、お前だけ見つからなくてさ。悪くなるようだったら誰か他のやつにやろうかとも思ったんだが——」
「僕が食べる」
「そう言うと思った。大丈夫だ、まだ悪くなってないから。もう一週間経ってたら怪しかったけどな!」
そんな話をしていたら、いつの間にかカインの部屋の前まで連れてこられていた。ちょっと待ってろ、と言い置いて、カインは一度部屋の中へと引っ込んだ。垣間見た室内は相変わらず物であふれている。まさか脱ぎ捨てられたブーツやジャケットと一緒に放置されてたのでは、と危ぶんだが、カインがまっすぐに向かったのはこの部屋で唯一綺麗に整頓されている窓際のデスクだったので、ひとまず安心する。
扉が閉まりきる前にカインは廊下へと出てきた。手のひらに収まるくらいの、小さな箱を持って。
「はい。お前に」
「これだけ?」
「そう言うなよ。数量限定品っていうのが、たまたま一つだけ買えたんだ。だからそれ、お前にだけだぞ」
「わかった、他の人のはもっと大きいんでしょ」
「大きさは同じだ! ……おっと、やばい、こうしてる場合じゃないんだった」
小箱をオーエンに押しつけて、カインは再び室内へと戻る。何をするつもりかと黙って見ていれば、デスクを回り込んだカインは窓を大きく開けた。カーテンがはためき、二月にしては柔らかな風が室内に吹き込む。風に押されて閉まりそうになった扉を慌てて手で押さえる、その向こうで、カインは窓の桟に足をかけて、外へと身を乗り出している。
「じゃあな、オーエン。ハッピーバレンタイン! あ、窓、閉めておいてくれ!」
それだけ言って呼び出した箒にぱっと飛び乗ったかと思うと、その姿はあっという間に見えなくなった。
取り残されたオーエンは、釈然としないまま手元の小箱を見下ろした。厚紙でできた何の変哲もない小箱である。色は茶色、金で縁取りされた薄水色のリボンがかけられている。しいて上げれば、形が五角形をしているのが、珍しいと言えば珍しかった。
カインの頼みなど無視してもよかったが、廊下に立ち尽くしたままというわけにもいかず、かといってこの箱を持ってどこかへゆく気にもならずに、仕方なく主不在の部屋へと入る。入った瞬間、押さえがなくなった扉が背後でバタンと音を立てて閉じる。それに背中を押された気がして、オーエンは窓際までやってきた。散らかった部屋は、そこ以外まともに腰を落ち着けられる場所が見当たらない。
椅子ではなくデスクに直接腰掛けて、膝の上で、オーエンはその五角形の小箱を開けた。リボンをほどき、蓋を開ける。中から現れたのは、十字の形に並んだ五つの——
「……石?」
赤、紫、青、緑、黄。コインほどの大きさの、だがコインより立体的な形をしたそれらは、オーエンの目には石のように映った。美しくカッティングされた赤、天然の水晶のような紫、楕円に磨かれた青、四角く角を落とされた緑、そして、綺麗な球形をした黄色。よく見れば一つの色の中にも濃淡があり、ところどころに白が混じったり金銀が散ったりしている。どうみても宝石にしか見えないそれらは、しかしカインの言葉が本当ならば、宝石ではなくチョコレートのはずだ。
オーエンは中央の一つ、黄色い球体を指でつまんで、宙にかざした。濃い黄色と薄い黄色が混じり合っている。その中に、かすかに金箔が散っている。
「夏の花みたい」
知らず呟いて、はっとした。
「あまい」は「きたない」。
「きれい」は「まずい」。
オーエンは、つまんだそれに恐る恐る顔を寄せる。すん、と匂いを嗅ぐと、心なしか柑橘の香りがした気がした。でもまだわからない。舌を出して表面をそっと舐める。少し甘い気がする。でもまだわからない。
白い歯を、軽く立てる。ほろりと表面が砕けた。こぼさないように、口に入れる。恐る恐る犬歯で噛む。とたんにどろりと中からあふれる、蜜。
味がする。苦くない。あまい。おいしい。
「きれい」で「あまい」。
カインがオーエンに与えるものはいつもそうだ。オーエンのそう短くない生の中で、彼が独自に築いてきた「これはこういうものだ」という常識が、ことごとく覆される。「ありえない」と諦めたはずものを、当然のように差し出される。それがこちらにとってどれほどの劇薬かを知りもしないで。
口の中のものを飲み込んでしまってから、オーエンは箱を閉じて窓を閉めた。ついでにカーテンも閉じてしまう。すっかり薄暗くなった部屋で、壁に掛かった姿見を見つけた。そこに映る色違いの瞳を見つめた。片目を覆う。残った黄色の瞳は、暗闇の中でも輝いて見えた。
知らなければ、飾って眺めているだけで満足だったかもしれない。あれだけ試して、ことごとく不味かったのだから、今さらもう一度試してみようだなんて思わなかった。
だが、オーエンは知ってしまった。知ってしまった以上、いつか”これ”を口に入れるだろう。舐めるだけでは満足しない。歯を立て、中身を暴いて確かめるだろう。
だって、「きれい」で「あまい」が存在すると彼はもう知ってしまったのだから。夏の花も、カナリアの羽も、柑橘の皮も違ったけれど、そのすべてを集めて凝ったような、”これ”の味を、オーエンはいつか必ず確かめる。
喉の奥から湧き上がる蜜の香り。舌に残ったガナッシュの甘さ。そんな物とは比べものにもならない。
きっとどんなチョコレートよりも「あまい」に違いない。
オーカイワンドロさんのお題を使用しました


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