さて出かけようか、という段になって、彼は音もなく現れた。
「……騎士様」
「ぅわっ!?」
突然後ろからマントを引っ張られて、驚いたカインが振り返る。ヒースクリフとシノの目の前に現れて白いマントの裾を掴んでいるのは、北の魔法使いオーエン、のはずだが。
「どこへ行くの」
まるで幼い子供のような辿々しいしゃべり方に、ヒースクリフは覚えがあった。
「もしかして、〈傷〉のほうの?」
以前彼が、シノに目薬を差されて顔をびしょびしょにしていたことを思い出していたヒースクリフは、隣の幼なじみに突然腕を引かれ、背後に隠される。
「下がれ、ヒース」
「な、なに?」
「こいつはこの間、カインにケルベロスを嗾けた。危険だ」
微笑ましい記憶が、一瞬にして血と泥の夜の匂いで上書きされる。あの日の彼らの顛末を、ヒースクリフは話でしか知らない。自分はシノとミノタウロスを相手にするので精一杯で、すべてが終わった後も、フィガロに怪我を治してもらって大勢の仲間たちに囲まれて、ここはもう安全だと理解したとたん気が抜けてしまったから。
だが、ベッドで昏々と眠り続けるカインを、目を覚ました後もしばらくは包帯姿だった彼を見て、背筋が凍える思いをしたのは記憶に新しい。
シノの後ろで顔色を悪くするヒースクリフを、当の本人の声が救う。
「いや、そんなに警戒しなくて大丈夫だ。——近場の町まで買い物に行くだけだよ。お前も行くか?」
カインの思いがけない提案に、思わずえっと声を上げてしまう。前々からカインはあまり細かいことを——目を奪われたことといい、先日の大怪我といい、生死に関わる出来事を〈細かいこと〉と言っていいかどうかはともかく——気にしない性格だが、〈傷〉のオーエンに対してこれほどまでに寛容な姿を、ヒースクリフは見たことがなかった。誰に対しても分け隔てのないカインが、彼に対してだけは、扱いあぐねている風に見えた。それなのに今日のカインはいやに〈傷〉のオーエンに対して優しい。もっともそれは特別な優しさではなく、カインの普段の優しさだったが。
「行ってもいいの?」
「もちろん。……いいよな、ヒース。シノ」
「あ、うん」
「……お前がいいなら、いい」
シノも同じようなことを思ったのかもしれない。一瞬間が空いたものの、そう返事をした。
四人は魔法舎の玄関ポーチから箒で青空へと飛び立った。正確には三人。〈傷〉のオーエンは魔法を使えないから、カインが自分の箒に乗せた。
「あれ、途中で戻ったらどうするんだ?」
「知らないよ……」
元々今日は、カインが消耗品の剣の手入れ道具を新調しに町へ行くというので、ヒースクリフが付き添いを名乗り出た形だった。〈大いなる厄災〉の〈奇妙な傷〉のせいで、カインは触れるまで他人が目に映らない。一人で出歩くのは大変だろうという気持ちもあるし、ファウストもネロも出かけていて、手持ち無沙汰にしていたというのもある。そこにシノが当然のように加わり、思いがけずオーエンが加わることになった。
カインの後ろをシノと併走しながら、内緒話のような会話をする。前をゆく二人がどんな話をしているのかは、風のせいでよく聞こえない。でも、何かを話しているのだということは分かる。
それを聞くともなしに聞きながらしばらくの間二人は横に並んで黙って飛んだ。もうすぐ着くという頃に、シノがぽつりと言う。
「何かあったのかもな」
「ん? どういう意味?」
聞き返したヒースクリフに、意味深な笑みが返る。
「まあもう少し様子を見ようぜ」
「何だよそれ……」
「降りるぞ!」
カインがこちらを振り返って、見えてきた町を指さして言った。
町外れの草地で箒を降りる。魔法の力だけでなく〈傷〉のオーエンは身体能力までどこかへやってしまったように、降りる瞬間にバランスを崩した。それをカインが危なげなく支える。
「大丈夫か?」
「ありがとう!」
オーエンはまだ元には戻っていないようだ。支えてもらった手を握ったまま、ニコニコと上機嫌に笑っている。その様子に微笑んでいたカインだが、一向に解放される様子のない手に、次第に困惑が浮かぶ。
「あの……オーエン?」
「なあに、騎士様」
「その、……手を、」
「うん。このままでいい?」
カインがたじろぐ気配。一体どうするのかと見守っていると、カインはしばし考えた後、一転からっと笑った。
「ああ。じゃあ、このまま手を繋いでいこうか」
隣から、へえ、というシノの感嘆だか感心だかの声が聞こえる。
「ヒース。俺たちも手を繋ぐか?」
「なんで!?」
先を歩き出していたカインが、そんな自分たちに気付いて立ち止まった。
「何じゃれてるんだ? 置いてくぞ」
その左手にはしっかりオーエンの手が握られている。
離れたところから改めて見ると、同じくらい長身の二人が手を繋いでいる姿は、東育ちのヒースクリフには少し奇異に映った。東の国は閉鎖的な土地だ。街で大人の男性同士が手を繋いで歩いているところを、ヒースクリフは見たことがなかった。一瞬、大丈夫かな、という心配が胸をかすめる。悪目立ちするのではないか。やめさせた方がいいんじゃないか。
「シノ、」
どうしようか、という意味を込めて幼なじみの名を呼ぶ。呼ばれた彼は、何のつもりか、こちらに向かって手を差し出して、こう言った。
「お前が心配しているのは誰だ?」
「……?」
「カインは気にしない。他人の姿が見えないから。オーエンも気にするわけない。それじゃあお前は何を気にしている? 誰が、奇異の目で見られるのを気にしてるんだ?」
「……そうだね」
シノの言わんとしていることが分かって、自己嫌悪に陥りかける。だが、差し出され続けている手の意味に気づくと、肩の力が抜けた。
「そうだね」
もう一度言って、ヒースクリフはシノの手を取り、カインたちの後を追いかけた。
結果から言うと、ヒースクリフの心配は杞憂だった。小さな田舎町であろうと開放的な中央の国の気風は変わらないらしい。男同士、女同士、男と女。通りすがりに手を繋ぐ人たちの姿を、何組も見かけた。かといってヒースクリフの羞恥心が小さくなることはなかったが。
「やっぱり恥ずかしい……」
「堂々としてろよ。俺の自慢の主君だろ」
「臣下は主君と手を繋がないよ……」
「そんなことはない。カインはアーサーとも手を繋いでいたぞ」
「……はあ、もう」
カインが何度か訪れているという小間物屋へ向かう道すがら、やっぱり手を繋ぐなんてやめておけば良かったなと若干の後悔を感じ始めた頃。
突然前を歩く二人が立ち止まった。
「どうしたの?」
「あれがいい」
「すまんヒース、何を指さしてる? 俺には見えないんだ」
カインに言われ、オーエンが指さす方を見て、ヒースクリフはうっと言葉を詰まらせた。川向こうの木陰のベンチで、親密な雰囲気の男女が手を繋いでいる。間に誰も入れないという雰囲気。顔を近づけて、くすくすと笑い合う間も、ずっと繋がれている手の形。
なんと言うべきか迷っているうちに、シノが説明した。
「あれは、恋人繋ぎだ。ほら、こういう」
「実演しなくていい!」
やってみせようとするシノの手を振りほどいて取り戻し、ヒースクリフは顔を赤らめた。オーエンはなおもそちらを指さし、言い募る。
「あの繋ぎ方がいい」
さすがのカインも、これには抵抗を示した。
「いや、あのだな。あれは特別な二人がする手の繋ぎ方で」
「僕と騎士様は特別な二人じゃないの?」
「あー、うーんと、ほら、特別に好き同士じゃないと」
「……騎士様は、僕のこと特別に好きじゃないの?」
頑張れ。負けるな。
ヒースクリフは心の中でカインを応援した。なんとなく、そうしないといけない気がした。
カインの出した結論は。
「………………わかった」
「やった!」
応援の甲斐なく、カインは降参した。嬉々として手の繋ぎ方を変えるオーエン。カインの黒いグローブとオーエンの茶色い手袋。それぞれに包まれた指が、交互に絡まる。
なんだか見てはいけないものを目にしてしまった気がして、目をそらす。たまたまそらした方向にさっきの男女の姿が目に入って、余計いたたまれなくなる。しかたなく視線を地面に落としたところで、まるで冷水のような声がした。
「なに、これ」
顔を上げる。オーエンの纏う雰囲気が、がらりと色を変えている。
「戻ったな」
「うわ、タイミング……」
もちろん、一番焦ったのはカインだった。二人のぼやきを大声が塗りつぶす。
「いや、これには深い訳がだな!?」
カインが何か言い訳を口にしようとする間、オーエンは繋いだ自分たちの手を見て、それからこちらを見て、片眉を上げ、もう一度じっくりと自分の手を見て——
「《クーレ・メミニ》」
次の瞬間、二人の姿は消えていた。
「……消えちゃった」
怒濤の展開に呆然と呟きながら、ヒースクリフは自分の目を呪った。なぜなら、見てはいけないものもう一つ、見てしまった気がするのだ。
(笑ってたな……)
二人が消えるその前に。オーエンがにこりと、それは楽しそうに微笑んだこと。
ヒースクリフは首を振って、その光景を忘れることにした。東の国の魔法使いらしく、余計なことには首を突っ込まないに限る。
気を取り直して、ヒースクリフはシノに向き直った。
「さて、これからどうしよっか」
「そうだな。とりあえず」
ん、と差し出された手を、ヒースクリフは苦笑いで、それでも再び握り返した。
オーカイワンドロさんのお題を使用しました


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