かすかな旋律が風に乗って聞こえてくる。まどろみの中でそれを聴きながら、カインは幸福な気持ちで目を覚ました。
魔法舎の裏手の林は普段滅多に人が近づかない。例外は毎朝魔法舎の周りを走り込んでいる自分くらいだろうと思っていたが、どうやら違ったらしい。走り込みの途中に見つけた、林の中の少し拓けた木陰の下で、本を片手に午後のひとときを過ごしていたはずが、いつの間にか居眠りしてしまったようだ。温かな陽気に優しい木漏れ日。昼寝にはもってこいの日だった。あるいは、歌い出してしまいたくなるような。
風の加減で聞こえたり途切れたりする歌声を夢うつつに聴いていると、徐々に声は途切れなくなり、声音もはっきりとしてくる。それに、唱和するような鳥のさえずりも。草を踏む足音さえ聞こえてきて、いよいよカインの寝転ぶ木陰のすぐそこまでやってきた彼は、しかしカインに気付くことなく、少し離れた別の木の根元で足を止めたらしい。足音が止んだ。だが歌声は止まない。
その頃にはもう、歌声の主が誰だか分かっていたが、カインはしばらく目を閉じたまま、その歌に耳を澄ませた。声をかけて歌が途切れてしまうのはあまりに惜しい気がして。
彼が歌うのは、古い民謡だった。ゆったりとした、素朴でやさしい旋律。それを紡ぐ声もまた、思いがけないほどに優しい。その歌はカインも聞き覚えのあるものだったので、自然、頭の中で歌詞が思い出された。時折、鳥の声が合いの手のように挟まるのが微笑ましい。肩にでも留まらせているのだろうか。もしかしたら帽子の上かも、と、その姿を想像して、軽い笑い声を立ててしまったのがいけなかったらしい。
歌が止んだ。
同時に、鳥たちが飛び立つ羽音。
一瞬の静寂。
「誰」
さっきまでの歌声が嘘のように、硬質で冷たい声がした。
「悪い、俺だ」
カインは何でもないように、体を起こして木の陰から顔を出した。その瞬間、ちっ、と舌打ちが返る。白いコートと白い帽子。白い肌に灰色の髪。色違いの瞳。黙っていれば人形のように整った美しい顔が、憎々しげに歪められる。
「なんでいるのさ」
「俺の方が先にいたんだ。声をかけなかったのは悪かったが」
「最悪。せっかくのいい気分が台無し」
「いい気分だったのか?」
「そうだよ。今日は朝から内臓をぐちゃぐちゃに潰したみたいなやつが食べられたし、ミスラが南の兄弟に言いくるめられてるところをからかってやって、その後はヒースクリフの機械いじりを邪魔してやった。それに昼は死体から剥いだ皮を網で焼いたみたいなやつも食べた」
「……それは済まなかったな」
ミスラとヒースクリフ、それに、朝食のデザートだったルージュベリーのコンポートと、昼食に出たワッフルをひどい言葉で表現されたネロに内心同情したが、言葉にはせずにただ詫び言を繰り返す。悪気はないにしろ、結果的に盗み聞きしてしまったのはこちらなのだから。
それでも、オーエンの意外な一面を知れた気分だ。彼もあんな歌を歌うのか。あの古い民謡。あれは、愛を誓った二人がボートで旅に出るという歌詞だったはずだ。二人の新たな旅立ちを祝う、結婚式などでよく歌われる。栄光の街の友人や騎士団時代の部下の結婚式で、何度か歌ったことがある。オーエンも、誰かの門出を祝って歌ったことが、過去にはあったのだろうか。
オーエンが立ち去らないのをいいことに、カインはつい、思ったことをそのまま口に出していた。
「おまえも、気分がいいと祝いの歌を歌うんだな」
「は?」
「あ、いや、おまえが歌っちゃだめだって言ってるわけじゃなくてな?」
言ってから、これだと語弊があったかと慌てて付け足したが、オーエンが引っかかったのはそこではなかったらしい。
「祝いの歌って何?」
おかしなことを聞いたと言わんばかりに眉を寄せるオーエン。その様子に、こちらの頭にも疑問符が浮かぶ。
「ん? だから、さっき歌ってたやつだよ。恋人たちを祝福する歌だろう? 俺も歌ったことがあるぞ、知り合いの結婚式とかで」
それを聞いたオーエンの表情が、疑問から嘲笑へと鮮やかに変化した。
「はは、面白い。お祝いでこの歌を歌うなんてね。みんな知らないんだ。これは報われない恋人たちが二人で一緒に死ぬ歌だよ。小舟で海へ出て、そのまま帰ってこなかったって歌」
今度はカインが表情を変える番だった。まったく正反対の変化ではあるが。
「どういう意味だ?」
「どういうもなにもないよ。僕が知っているあの歌は、そういう歌詞だってだけ」
「それってつまり……心中ってことか?」
「そうなんじゃない? 死んで来世で結ばれるなんてお気楽な話だろうって最初に聞いたときは思ったけど、今じゃこの歌を結婚式で歌ってるなんて、みんな騎士様みたいに救いようのない脳天気だね。今度教会に行って、新郎新婦の耳元で真実を囁いてやろうかな。そしたら彼ら、一体どんな顔をするだろう」
うっとりと目を細めるオーエンに、頼むからやめてくれよ、と釘を刺す。
それにしても、オーエンの言っていることが本当だとしたら、カインにとっても衝撃の事実だった。今まで歌っていたのはなんだったんだろう。それに、知ってしまった以上これからは歌えない。次に誰かの結婚式に呼ばれたとき、一体どう言い訳すればいいのか。まさか、今の話を言って聞かせるわけにはいかない。それこそ、オーエンの目論見が叶ってしまう。
仲睦まじい二人の船旅は、死出の旅だった。カインの知る歌詞からは想像も付かない内容だ。もしかしたら、歌には続きがあったはずが、いつの間にか失われてしまったのかも知れない。あるいは、歌い伝わる中で、歌詞が変化したのか。
「おまえが最初に聞いた時って……いったいいつの話なんだ?」
「さあ、忘れた。ずっとずっと昔だよ。人間が十回以上生まれて死ぬくらい昔」
つまらなそうに言う彼の白い横顔を、カインは不思議な気持ちで見つめた。時折忘れてしまいそうになるが——そして実際、普段はほとんど忘れているが——、オーエンはカインよりずっと年上の、長い時を生きる魔法使いなのだ。カインが生きた年数の十倍か二十倍、それ以上の年月を生きている。今のカインには永遠とも思える果てしない時間。それこそ、一つの歌が全く違う意味の歌へと変わってしまうくらいの。
そして、その年月はやがて、カインの上にも等しく降り積もるだろう。カインが魔法使いである限り。
今はまだ想像もできない。あえて考えないようにしているところもある。家族も、友人も、カインを置いて去って行くだろう。生まれた家も、馴染みの食堂も、行きつけの酒場も、きっとなくなってしまう。街の名すら変わってしまうかもしれない。そうして、なにもかもが変わっていくのだ。
でも、決して悪いことばかりではないはずだ。悲恋歌が祝福の歌となるような、思いもしない変化だってあるということを、カインは今日知った。
それに、何もかもがカインを置いていくわけではない。同じ時を生きる仲間が、今もほら、すぐそこにいる。
「なあ、もう一度歌ってくれないか」
「へえ、心中の歌が聴きたいの?」
「ああ、聴きたい。だめか?」
「……」
リクエストをするだけして、カインは体を木に凭せて再び目を閉じた。
陽光がまぶたの裏を明るく照らす。木の葉を通してやわらかな日差しが顔に落ちてくる。風がおだやかに吹いている。昼寝にはもってこいの日。あるいは、歌い出したくなるような。
穏やかな沈黙が続き、やはり黙って去ってしまったかとカインが思いかけた頃。
歌声がした。
先ほどよりももっとずっと静かで、ささやかな歌声。いつの間に移動したのか、すぐ横から、あのやさしい歌声がする。
心中の歌とは思えない音色は、カインの耳にはやはり、祝福の歌のように聞こえた。
オーカイワンドロさんのお題を使用しました


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