銀色の雪原を、巨大な月が照らしていた。
逆に言うと、世界にはそれしか存在していなかった。雪と、月と、闇。
遙か彼方まで、平坦な雪原が広がっている。生き物の気配はなく、月の投げかける光は雪面に影すら落とさない。時折、風が地響きをともなってごうごうと吹き抜けた。雪は降り止んでいたが、その度に新雪が風に巻き上がり、ブリザードのごとく世界の輪郭を曖昧にした。あるいは、生と死の境界すらも。
——その風を切り裂くようにして。
突如、一頭の獣が月光の下に姿を現した。
四つ脚で雪を蹴り上げ、鋭い爪で氷を掴み、熱い呼気をまき散らし、夜と雪の間を駆ける。風雪を振り切って、やがて月影にくっきりと浮かび上がったのは、巨大な狼の姿である。
風と競い合うように、あるいは追いかける月を振り切るように、狼は雪原を駆けてゆく。狼がどこから来たのか、それは誰にもわからない。狼自身にすら。何故駆けるのか。どこへ向かうのか。それどころか、自分が何者かも、狼にはわからなかった。
もしかしたら数瞬前に、気まぐれに駆けだしたのかもわからないし、生まれたその瞬間かずっと駆け続けていたのかもわからない。どちらであってもかまわなかった。狼はただ、駆けるだけだ。
狼は、果てしない夜を駆け続けた。
雪原を駆け抜け、クレバスを飛び越え、氷河を渡る。地吹雪が何度も行く手を遮り、月は嘲笑うかのように狼を追い続けた。極度の寒さが狼の体力を削った。固く凍って割れた雪がナイフのように狼の脚を傷つけた。それでも、狼は脚を止めない。世界にたった一頭、あまりにも孤独であるがゆえ、孤独という言葉も知らずに、狼はひたすらに駆けた。駆けて、駆けて、駆け続けた。
どのくらい経っただろう。
永遠に続いているかと思われた雪原は、やがて終わりを迎えた。大地は途切れ、押し寄せた流氷の残骸に阻まれる。その先は、黒々とした海だった。狼は緩やかに速度を落とし、一度も休むことなく駆り続けた脚を、ついにぴたりと止めた。そうしてみると、あれだけ強く吹いていた風が、もうそよぎもしていない。月はいつの間にか沈んでいた。そこでようやく、狼は気がついた。
空の端が、ほのかに明るく光っている。
夜が明けようとしているのだ。
僅かな間にも、世界は刻一刻と姿を変えていった。僅かに闇が薄らいだ程度の空の色が、紫、蒼、薄緑、白と明るく変化し、橙、赤と続いたあと、やがてまばゆいばかりの金色の光を連れてくる。
その金色は、月などとは比べるべくもなく、あまねく世界を照らし出した。油のように黒かった海は、本来の色を取り戻し、流氷は海の色を透かしてほの青く光った。渓谷や山脈といった地形を顕わにした雪原は、もうただの銀色の平面には見えなかった。
陽光は狼の上にも等しく降り注いだ。
白銀の毛皮が、赤い目玉が、みるみるうちに融けてゆく。
そして狼は、己の正体を知るのだ。
◇
オーエンは憮然と目を覚ます。
訳のわからない夢を見た。訳がわからなさすぎて、思い返すのも馬鹿らしい夢。困惑を通り越して怒りすら沸いてくる、くだらない夢だった。夢の中身は完全に意味不明で、だから何?と言いたい内容だったが、どうしてこんな夢を見たのかには思い当たるところがある。
前の晩、談話室を通りかかると、何人かの若い魔法使いと賢者が会話を弾ませていた。何か面白い話でもしているのかと近寄ったところ、賢者にこう言われたのだ。
——オーエンは、狼に似ている気がします。
他の魔法使いたちの視線が集まるのを感じて、オーエンは投げかけられた言葉の意味を考えるよりも、その場の雰囲気をかき回すことを優先させた。
——へえ、僕がけだものに似てるって?
それだけで、賢者はしどろもどろに、敢えて例えるならという意味で……などと言い訳をして、面白いほど簡単に店仕舞いして退散してしまったが、後から考えればもう少し真意をただしておけば良かった気がする。気まぐれな猫に似ている、性悪な蛇に似ている、と、動物に例えられることは今までも何度かあったような気がするが、狼に例えられたのは、記憶の限りでは初めてのことだったからだ。
その違和感が、きっとこのような形で現れたに違いなかった。
オーエンは髪をかき上げて、ベッドから起き上がった。
頭の中にはまだたっぷりと夢の残滓が残っていたが、不思議なことに気分はそう悪くない。もう一度寝る気が起きないくらいには、目覚めはすっきりとしていた。
指先一つで身支度を調えて、呪文を唱えて魔法舎の屋根の上へと移動する。瞬間、すっと冷えた外気が全身を取り囲む。魔法舎と、魔法舎を取り囲む森とが、薄暗がりの中にぼんやりと浮かび上がった。
夜明け前だ。
小鳥たちの鳴き声がしている。風はなく、うっすらとした雲が、空全体を覆っていた。東の空、雲の向こうに陽光がしみ出してきているのがわかるが、朝焼けの気配はない。
オーエンはさらに耳を澄ませた。バタン、と魔法舎の裏口の戸が開く音がする。井戸で水を汲む音、じゃぶじゃぶと水を使う音。そして、規則正しく駆け出す足音がする。
ふうん、とオーエンは微笑んで、とんと屋根を蹴った。
朝焼けを見に行きたい気分だった。


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