暑い夏の日のことでした

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 そこは住宅街の外れにある、手入れのされていない木々に囲まれた、ほんの小さな墓地でした。
 どこかのお寺のお墓というわけでもなく、この辺りに昔から住んでいる人たちの先祖代々のお墓が、五つ六つほど並んでいるような、こぢんまりした墓地です。それだから、お盆の今日も相変わらず静かなままで、誰の気配もありません。
 部活を終えて私がそこへたどり着いたとき、あたりはすっかり夕暮れで、蜩が悲しそうに鳴く声がただただ耳につきました。
 よく夏の日は長いといいますが、夏至が六月中旬であることを考えると、それから二月も経った八月半ばは思ったよりずっと早く日が落ちるものです。毎年欠かさずその日にしていたお墓参りは、高校になって始めた部活のせいで、今年はこんな、夕暮れも間近の時間になっていました。これほど遅くなったのは初めてのことでしたが、学校からここまで走り通しだったおかげでどうやら日暮れ前に家には帰れそうです。
 風のない、蒸し暑い日でした。夕方になっても気温が下がる気配もなく、空はよく晴れていて夕立が起こる様子もありません。走っていたせいで気が付きませんでしたが、そよ風ひとつも吹かないせいで、さながらサウナのようでした。
 コンビニで買った生花を片手に、私は小さな墓地をあらためて見渡し、そして、思わず花を落としそうになりました。誰もいないと思っていたそこに人影を見たせいです。黄昏時が近付いていて、幽霊とすら思いました。ひとつのお墓の前に、誰かがしゃがんでいるのです。
 動揺は一瞬でした。だって今日はお盆ですから、人がいたって不思議ではないのです。今まで誰の姿も見たことがなかったからと言って、見なかったほうがおかしいのだと、そう納得しました。
 私はその人の背中を見て、なぜか呼吸をするのを遠慮したいような気分になりました。なんとなく近づくこともためらわれ、私はそこから十分離れたところで立ち止まったままでした。
 その誰かは、お墓に手を合わせているようでした。いつからそうしていたのかはわかりませんが、私の前で、その人は少なくとも一分より長い間、じっと手を合わせていました。
 私が見つめる前で、その人はすっと立ち上がりました。私も、詰めていた息をようやく吐き出すことができました。その人は、黒い礼服をこの蒸し暑いのに少しも崩さず、きっちりと着込んでいました。背が低くて色白で、全体的にこぢんまりとした体格の、若い男の人のようでした。特に印象的だったのは、立ち上がった時にすっと伸びたきれいな背筋でした。
 その人はやにわに振り向くと、私を認めてあっと小さく声をあげました。それから、頭と目線を少し下げ、私に会釈しました。私も会釈を返し、こうして見つめあっていても仕方がないので、彼が今さっきまで手を合わせていたお墓の前に移動しました。なにせ、私がお花を供えに来たのは、そのお墓だったのですから。
「こちらの縁者でいらっしゃいますか」
 思っていたよりも低い声が、男の人から発せられました。近くで見た彼はやはり若く、大きく見ても私と五つ、六つしか違わないように見えるのですが、もしかしたらもっと年上なのかもしれない、と声を聞いて思ったりもしました。
「縁者といいますか……私の祖母の」
「お兄様でしょうか」
「はあ、いえ、そういうわけでは」
 私はひどくあいまいな声を出しました。
 実は私もよく知らなかったからです。祖母は私を連れて、毎年この日にここへお墓参りにやってきましたが、幼かった私は詳しいことを尋ねることもせず、ただ帰りに氷菓子を買ってもらえるのを楽しみに、祖母について行っただけなのでした。
 私の煮え切らない返事に対して、彼は特に何も思っていないようでした。彼は、私がお墓に花を供え、手を合わせる間、それを黙って見ていました。視線を感じましたが、私はいつまでも立ち去らない男に不審も恐怖も覚えることなく、なんとなくそこにいることが当たり前のような、そんな気持ちを覚えながら、静かに手を合わせていました。
「そのお花はあなただったんですね」
「え?」
 私が長いような短いような合掌を終えると、男の人が言いました。言っている意味が分からなくて問い返すと、男の人はにこりともせず、どこかぼんやりとしたような顔で、私が備えた花を見ながら口を開きました。
「昼間は予定があるもので、いつも夕方だったから、どなたがお供えされているのか知りませんでした」
「あなたも毎年?」
「ええ」
「……この方の、縁者なんですか?」
 奇しくも先ほど彼にされたのと同じ質問を私がすると、彼は初めて小さく笑って、
「いいえ」
 と言いました。どことなくさびしそうな笑い方でした。夕陽の加減のせいだったのかもしれません。
 もう用事は済んでしまい、このまま立ち去ってしまってもよかったのですが、どうしてかそうし難く、もしかしたら彼もそうだったのかも知れず、お互い無言でしばらくお墓を見つめていました。
 古いお墓です。長年の風雨のせいで、角がとれて、刻まれた文字も読みづらくなっていました。何某家代々の墓、というのはわかるのですが、肝心の苗字は、薄暗いのもあって読み取れません。
 今になって、私は祖母に何も聞かなかったことをわずかに後悔しました。こうして毎年、誰とも知れないお墓に花を供えているわけですが、私はこの墓に眠る人が祖母とどのような関係だったのか、そもそもなぜ亡くなったのか、それすら知らないのですから。知っているのは、ただ祖母が、毎年この日にお花を供えに来ていたことだけ、いえ、今日になって、同じようにお墓参りをしていた人がいることを、知りましたが。
 何も知らないのですけれど、私はこのお墓が、いつか誰にも見返られなくなる日のことを思い、少しさびしくなりました。祖母はもう来られませんし、私もこれなくなってしまったら、このお墓は誰からも忘れられてしまうのでしょうか。そう思うと、なんだか少し、切なくなりました。
 ぼんやりしていました。
 私はこれで、と男の人が低い声で言い、私はこういうときどういう風に返すのが正しいのかよく分からなかったので、馬鹿正直に「はい」と答えました。彼は帰る前に、ふと口を開きました。
「ところで、お聞きしてもいいですか。あなたのおばあさまは、」
「……三年前に亡くなりました」
「そうですか」
 彼は続けて、祖母の名前を尋ねました。私が祖母の名前を言うと、
「そうですか」
 と、もう一度同じことを言いました。感慨深そうに見えたのは、気のせいでしょうか。
 今度こそ立ち去ろうとする彼を引きとめたのは私でした。
「私、今度、引っ越すんです。だから、もうここには来られませんけど、」
 来られませんけど、お参りしてくれる方が私のほかにいると知って、安心しました。そう続けようと思ったのに、彼は私の言葉を聞いてなぜだか悲しそうな顔をしたので――私自身、なぜ彼が悲しそうな顔をしたとわかったのか、あとで考えてみるとさっぱりわからないくらい、それはかすかな変化でしたが――、私は結局、そこで言葉を切ったまま口をつぐみました。
 私がこれ以上何も言えないでいると、彼ははじめと同じく小さく会釈しました。私も、同じように会釈しました。
 私は彼の背中が見えなくなるまでそこに立ちつくしていました。
 夕日が暮れようとしています。一度だけ、名前も分からないお墓を振り返って、それから、私も帰路につきました。

 八月十五日。よく晴れた、暑い夏の日のことでした。
 暑い夏の日の、夕暮れのことでした。

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