特別な用事があったわけではない。しかし何かのついでというわけでもなかった。暫く顔を見ていないなと、スケジュールの空白を見つけたときに思いついてしまったのだ。近頃さっぱりあいつの話を聞かない。試しに手帳をめくってみたら、まるまる三か月会っていなかった。もしかしてどこかで野垂れ死んでいるんじゃないか。たまの休日にそれを確認に行くのも悪くないと思った。
別に、最近音沙汰がないのを心配しているとか、そういうのではない、断じて。
結局のところそれらはすべて言い訳なのである。
イギリスには確信めいた予感があった。
久しぶりに訪れたパリは雨だった。
駅に着く少し前から降り出した雨は、いざ北駅で降りる段になって通り雨で済まされない雨足に変わっていた。
洒落っ気のないネイビーの傘を広げ、イギリスは雨の街へ歩き出す。
街は薄暗かった。まだ午後の早い時間である。平日で人通りが少ないせいか、通りにはまるで活気がない。
傘を忘れたビジネスマンが軒下で立ち往生している。客を見つけたタクシーが水を跳ね上げながら止まる。派手な口紅をした女が、服が濡れたと喚いている。
それらを気にする様子を一片も見せず、イギリスは同じ歩幅で、同じ速度で歩き続けた。
大きなブティックショップの前を通る時だけ、イギリスはほんの少し視線を向けた。ショーウィンドウが映す街はまるでロンドンのように陰気だった。その中央には、ビジネススーツにバスケットという奇妙な取り合わせの童顔の男が佇んでいる。イギリスは左手に視線を移し、少しだけ体に寄せた。雨に濡れていたバスケットの端が傘の下に入るように。
この街はいつだってイギリスに優しくない。
駅からほんの十分程度で目的地に着く。車の多い通りを一本折れただけで喧騒はさらに遠くなった。雨音ばかりが耳に付いて離れない。
イギリスは一軒の古びたアパルトマンの前で立ち止まった。歴史的建造物といってもいいような外観の建物である。雨雲の下で一層薄汚く見えるが、それだけでないことに気付く。いつ見ても全ての出窓を美しく飾っているはずの季節の花々は、最上階――五階の窓にだけ咲いていなかった。枯れ始めた葉が一時の水を受け瑞々しく光っている。
イギリスは丁寧に傘を畳むと建物に入り、ゆっくりと階段を上った。雨音が耳の奥でさざめいている。
その部屋の前まで来て、イギリスは自分の予感が当たっていたことを知る。
部屋の中から、かすかに音楽が聞こえていた。
ここに立つまで全くわからなかったが、しかし確かに音楽は聞こえている。か細いピアノの音が漏れ聞こえている。
そう、この部屋にはピアノがあるのだ。アンティークと呼べば聞こえがいい、その実ただのおんぼろの、古い型のアップライトピアノ。いつもは深い臙脂のベルベットが掛けられて、まるで家具の一つのように影を薄くしているが、イギリスはそこにピアノがあることを知っていた。それが今、鳴っている。
これがCDでもDVDでも、カセットでもレコードでもなく、他でもないあいつの手による音楽だとイギリスにはわかるのだ。
さあさあと遠い雨、近くでぽつ、ぽつと屋根を打つ音、それらに消え入るように、ピアノの音。灰色の雲、陰気な街。それらが絶妙な具合に配置されて、まるで一つの舞台装置のようだった。
イギリスはドアベルを鳴らさなかった。扉に背を預けて、そのまま腰を下ろす。頭の後ろを扉に当てると心なしか音楽が大きくなった気がした。
デジャビュだ、と思った。それもそのはずである。イギリスは昔にも一度フランスのピアノを聞いている。その時もまた、イギリスは彼がピアノを弾く部屋に入れず、こうやって扉の前で盗み聞いていた。
それこそが予感の正体でもあった。
雨空の午後、音楽は止まなかった。
知っている曲もあれば知らない曲もあった。どれも甘ったるい旋律のロマンチックな曲ばかりだった。
イギリスはバスケットを膝に抱えて、通り過ぎる音楽をただ聞いていた。
フランスのピアノは感傷的だ。独りよがりでナルシシズムに満ちている。思う存分テンポを揺さぶって、自分の頭の中だけに響く架空の音楽で己を満たしている。まるで自己満足の代物だった。
それは涙の代替行為だからなのだ、とイギリスは思っている。ほんとうのところはどうだかわからない。それでもイギリスは確信している。
誰も見ていないのだから好きなように泣けばいいのに、フランスは人一倍の見栄張りだから、ああやって感傷的にピアノを掻き弾いては自分を慰めているに違いなかった。
フランスは人前でピアノを弾かない。尤も、人に聞かせられるような腕でもないと思うが、それにしても彼は自分がピアノをたしなむようなことを誰にも言わない。やはり、これが涙の代わりだからである。だから彼がピアノを弾くことを知っているのは、たぶんイギリスくらいなのである。
薄暗い部屋でピアノを弾き続ける男の姿を思い描いた。あの伊達男が、こうやって誰も聞いていないピアノを何度弾いただろうかと想像する。イギリスが聞いたのは二回だが、イギリスも知らないところで何度となく弾いているのだろうか。
なぜだか悲しくなった。別にフランスを思って悲しくなったわけではない。
誰の手も求めずひとりでピアノを弾く男と、その部屋の前で何もせずただ座っている自分に、深い悲しみを感じた。
なんてつまらない、なんて孤独な関係だろうか。国なんてそんなものだ。何世紀付き合おうとも最後は一人なのだ。外面だけで握手はしても、泣きたいときに頼る相手の一人、持ちえない。フランスが誰も頼らず一人で悲しんでいる今だって、イギリスは自分自身の孤独を悲しんでいる。
いつの間にか音楽が止んでいることに、イギリスは気がつかなかった。
突然背中を押されて、前につんのめる。
「おわっ」
「……なにやってんのお前。呼び鈴鳴らせよ」
扉から顔を出した男を、イギリスは見上げる。目は赤くなっていないだろうか、頬は濡れていないだろうか、声はかすれていないだろうか、鼻を啜ってはいないだろうか。無意識に痕跡を探したが、一つも見当たらない。それはそうである。彼はピアノを弾いていただけなのだから。
「それ、なに持ってんの」
「スコーン、作ってきた」
「はあ……。えーと、ジャム残ってたかなあ。コーヒー淹れないと喰えないよなあ」
「喰えるよ。別にジャムなんかなくったって美味いだろ」
扉の奥に引っ込んだ背中を追って部屋に入った。肩越し見える部屋はよく整理されていて、インテリアも総じて洒落ている。その中にひとつだけ、臙脂のベルベットがかかった古くてみすぼらしい家具があって。
「相変わらず下手糞だな」
思わず口を衝いて出てしまった言葉に、
「……最近、弾いてなかったからな」
少しだけ間をおいて返された答えは、なんだかいつもよりそっけなく、気のせいかもしれないが、わずかに湿り気を帯びていた。


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